人生を通して付きまとう『金』。どれだけ綺麗事を言っても、生きていくには必ず必要だ。生まれつき金に恵まれた人も居れば、どれだけ努力をしても金に恵まれない人も居る。自分の意志とは裏腹に、人生を左右する事さえある。
この話は、そんな金による人生の選択で恐怖の体験をした大学生の話。
街中で受け取ったチラシ
1994年、F1のスーパースター『アイルトン・セナ』が衝撃の事故死で世界が悲しみに包まれ、6月には某宗教団体による劇薬事件が日本中を震撼させた。また、後に『買い物』の常識を覆した『Amazon』の前身となるウェブサイトが生まれたのもこの年だ。
そんな1994年の6月も終わりに近づいたころ、橋本 武(はしもと たけし)は大学へ進学したものの、一人暮らしの住まいを見つけられずに居た。実家は富山県にあったが、両親共働きのよくある家庭で日々の暮らしは楽ではなかった。子供は末っ子の武を含めて3人兄弟で、金の面では両親の負担だったことは間違いないが、それでも、子供たちの未来が少しでも明るいものになればと、コツコツと貯金を貯めて全員大学へ進学させた。
そんな両親の背中を見て育った武は、大学へ行かせてもらうのであれば、一人暮らしをして両親の負担を少しでも減らしたいと前から思っていた。しかし、思うように物件が見つかるわけもなく、4月からの通学は友達に頭を下げてルームシェアさせてもらっていた。
当然タダで住まわせてもらう訳にもいかず、武は大学が無い時間はコンビニとカラオケのバイトを掛け持ちして日銭を稼いだ。『金の事は相手が誰でも真面目に向き合え。金は人を狂わす』というのが両親の教えだったからだ。池袋に住んでいた友達の家の家賃は2Kと言えども104,500円となかなかの金額であり、光熱費を含めて月60,000円を友達に支払っていた。それ以外に食費が出ていくので、バイトの給料ではほとんど手残りはなく、武は遊びに行く金も無かった。
ある日、カラオケのバイトが終わりいつもの道を歩いて帰ろうとしていると、駅前の雑居ビルの前でビラ配りをしていた。自分と同じくらいの女性で、半袖に短パンというラフな格好をしていた。目は虚ろでどこか上の空で呆然としながらチラシを配っているような気がしたが、東京の人は皆そんなもんだろうと特に何の警戒心もなくビラを受け取った武は、1ブロック先にあるコンビニの明かりでチラシの中身を見てみる事にした。
小学生の時によく見た灰色の藁半紙に手書きされたそのチラシは、どうやら不動産物件のチラシのようだった。都内のマンションや駐車場の売買などが書かれており、正直武には関係のないもに感じられ、コンビニのゴミ箱に捨てようとした時だった。
チラシの一番下に書かれた文言が目に留まった。
『池袋10分 築38年 6畳一間 ユニットバス 15,000円 墓場あり』
そこにあったのは賃貸物件の項目だったが、武には『15,000円』しか見えなかった。よく見てみると駅からも近く、恐らく1Kの間取り、家賃は破格の15,000円。恐らく、末尾の『墓場あり』というのが破格の理由だろうと思った武は、次の日にこの物件の管理会社に連絡してみる事にした。
友人宅へ帰ってチラシを見せると、『いや、それヤバイ物件なんじゃないの?絶対事故物件だって』と友人に言われた。『でも、俺って幽霊とか信じないし見たこともないから、そこだけクリアになれば15,000円ってめっちゃお得じゃない?駅からの距離もここの家よりも近いし、話だけでも聞いてみる価値はあると思うんだ。』と武は言い返した。
カラオケのバイトの時は、店長の好意で前日に売れ残ったピザを貰って帰ることが出来たため、武は友人と二切れづつ頬張りながら、小さなテレビの前で夜中まで談笑していた。
不動産屋への電話
次の日の朝、武はいつも通り目が覚めると日課の散歩に出かけた。高校時代に陸上部だったこともあり運動が習慣付いていた。普段は大学までの通学がいい運動になるが、土日は夜のバイトまで外に出る事は殆ど無い為、武は朝起きたら散歩に行くと決めていた。
例の物件のチラシにあった電話番号へ詳細を聞いてみる事にしていた為、いつもより周りのアパートが気になってマジマジと見つめていた。池袋は建物も多く、散歩している間ずっと武の興味が尽きることはなかった。
『友達の言うようにヤバい物件だったらどうしようかな。でも、内見が出来るはずだから、その時に決めればいっか。』
そうこうしていると、いつものルートを歩き終わって友達のアパート戻ってきた。
朝食は給料日の日以外は食べない事にしていたので、友達とテレビを観ながら狭いアパートの一室で時間が過ぎるのを待った。10時を回った頃、『そろそろかな』と呟いて、武は自分のカバンから例のチラシを取り出した。
『じゃ、ちょっと電話してくる』
そう言い残すと、武はアパートの外にある公衆電話へと向かった。近隣のゴミ捨て場に隣接している電話ボックスがあり、貧乏学生だった武と友達はその公衆電話を外部との連絡手段としてよく使っていたのだ。チラシの番号へ電話すると、呼び出し音が鳴った。何度かコール音がしてようやく繋がったが、武は少しドキッとした。
『・・・はい』
ドスの聞いた低い男の声が受話器から飛び出してくるかのような勢いで武に話しかけた。武は少し躊躇ったが、『あ、あのー、チラシを見てお電話しました。賃貸物件の事でお話を伺いたいのですが・・・』と告げると、『あー、今ちょっと立て込んでるから事務所に来てくれるかな。住所言うから。豊島区池袋3丁目の・・・』
電話口の男の低い声と捲し立てるような勢いに、武はメモする物が無いとは言えなかった。受験勉強で暗記は得意だったが、間違わないように何度も繰り返した。住所を伝えて電話を切ろうとする男に対して『お名前は・・・?』と武が言うと、『あんたは?』と聞き返された。名前を名乗ると電話口の男は『棚橋、じゃ。』と言って電話を切った。
時間にして1分もなかった。武はとりあえず急いで友達の部屋へ戻って伝えられた番地をメモに取った。『どうしたよ?そんなに慌てて。』友達が問いかけると、『いやー、参ったよ。連絡は取れたんだけど、滅茶苦茶不愛想な男の人だった。昨日のビラ配りの人は可愛い女の子だったんだけどなぁ』と呟いた。
田舎の両親から、『都会は色んな人が居るから気を付けなさい』と言われた事を思い出した。確かに、駅前の表通りはキラキラしていて華やかに見えるが、裏通りには廃墟のような場所もある。当然、話しやすい人間も居れば、話しかけちゃいけない人も居る。そんなものかなと武は思っていたが、今回はなかなかな第一印象だった。そう思いながら武は藁半紙の例のチラシを見返してみた。
よく考えると、チラシに住所が無いことが気になった。『わざわざ電話したのに事務所に来いとか、最初からチラシに住所を載せればいいのに。もしかして、住所を載せる事が出来ない理由でもあるのか?もしかして、そっちの筋の人なのかな?』
半分冗談で友達と話していたが、先ほどのドスの効いた声が、武にはそう感じても不思議ではない節があると思った。
武があまりにも気にしているので、予定がなかった友達が一緒に例の事務所へ尋ねてくれることになった。当然タクシーなんて使えないので、徒歩で行くつもりだ。友達の家から伝えられた池袋3丁目に行くには、だいたい30分ほどかかるだろうと思われた。
まだ7月になったばかりだったがその年は酷く暑い年で、武と友達は歩き始めて5分もしないうちに汗が噴き出していた。東京のアスファルトジャングルでは日差しの照り返しも強く、ギラギラとした太陽に友達は付いて来るんじゃなかったと愚痴をこぼした。持参していた水筒の水を飲み干してしまい、途中の公園の蛇口を捻って水を入れた。とは言っても、殆どぬるま湯のような水だったので、冷たくなるまで待って武はついでに顔を洗った。
そろそろ目的地に近づいてきたと思われた時、武の嫌な予感は大きくなった。そこは裏通りの雑居ビルが立ち並んだ怪しげな雰囲気を醸し出していたからだ。電信柱に書いてある番地を確かめながら進んでいくと、恐らくその場所であろう建物にたどり着いた。
漆喰の壁に粗末な窓が付いた3階建ての建物だった。1階が事務所として使われていて2階と3階は恐らく住居として使っているのだろう。壁は所々ひび割れていて、隣の建物との40cmくらいの隙間にはビールのケースや黒く変色した段ボールが伸び放題の雑草の上に乱雑に置かれていた。1階の入り口の横にはベニヤの板に黒いペンキで書かれた文字があった。
『仕事 不動産 売買』
武と友達はお互いに目を合わせたが、とりあえず入ってみようという事で、建付けの悪い引き戸をガラガラっと開けながらその建物に入って行った。
4世帯のアパート
中へ入ると、一本だけ蛍光灯の付いた狭い部屋の中でスーツを着た男が椅子に座って競馬中継を眺めていた。本当にここは不動産屋なのかと言わんばかりの雰囲気に、武は思わず立ち止まったが、武と友達に気付いた男が黒いサングラス越しにこちらを睨みつけた。
『なに?』
武はこの場所が例の不動産屋の事務所で間違いないと思った。電話越しに聞いたドスの聞いたあの声だったからだ。目的地に到着できたことの安堵感と、物々しい男の雰囲気に武は複雑な心境だった。
『あ、今朝方お電話した橋本です。棚橋さんですか?』武が恐る恐る口を開くと、男はパイプ椅子を2つ広げて『座って』と促した。武と友達は遠慮がちに座ったが、それと同時に入り口の扉を男がピシャっと閉めたので、少し怖いような感覚もあった。男は競馬中継が映っていたテレビを消すと、サングラスを外して話し始めた。
『わざわざ来てもらってすまないね。ちょうど大事なレースがあったからさ。』
含み笑いでそう言った男は、棚橋と名乗った。やはりあの電話口の男が目の前の棚橋だった。開口一番で呼びつけた事を詫びてきたのは武にとって意外だった。男の名前は棚橋 健司(たなはし けんじ)。両親が不動産屋を経営しており、今は両親が亡くなったため家業を継いで自分がこの事務所で仕事をしている。兄がいるが、自分よりもギャンブル中毒で人前に出ることはないらしい。池袋という土地柄、様々な物件があり、昔からの伝手で知り合いも多いことから、不動産と仕事の斡旋を行っているとのことだった。
『学生さん?多分イチゴーの物件の話だよね?』棚橋は見透かしたように武にそう告げた。
『はい、学生でお金が無いので安い物件を探しています。昨日、駅前のコンビニのところでビラ配りしてたので知りました。』武はここに来た経緯と自分が探している物件の希望を棚橋に手短に伝えた。
一通り聞き終えた棚橋はこんな事を言ってきた。
『うちは小さい不動産屋だから、物件の管理はしてない。だから、仮に住んだとしてそのあとの細かいことは大家さんと直接やってもらうことになる。ここの物件は2階建ての住居になっていて、1階に大家さんが住んでるんだ。70歳くらいだったかな。剣持ってじいさんだ。チラシにも書いた通り、築年数は古くて6畳間、ユニットバスだけどその辺はいいよね?建物の敷地の隣が同じくらいの大きさの墓場になってて、昔からなかなか人が入らないからこの金額で大家さんが出してるんだ。』
武は気になっていたことを棚橋に切り出した。
『これって・・・事故物件とかですか?』
『それはないよ。住んでみればわかるけど。どうする?』
棚橋はきっぱりと答えたが、それでも武は気になった。『正直、値段が値段なのでほかに何かあるんだったら知っておきたいです』武は勇気を振り絞って聞いてみた。
『ほかに?あー、剣持さんがたまに余った料理を持ってくるよ。』
武は拍子抜けした。それだけなのかと思ったが、これ以上踏み込んで聞いたら棚橋が機嫌を悪くする気がした。保証人も要らないという事だったのでしばらく考えていた武だったが、無い袖は振れないため、この物件に決めることにした。念書のような紙を取り出すと、棚橋は人取り物件の間取りや概要を説明した後、武は拇印を押した。
『この後ちょうど剣持さんとこ行くけど、どうする?』棚橋は突然提案してきた。友達は午後からバイトがあったためその場で帰宅して、武は棚橋と共に物件を見に行くことにした。
まさかと武は思ったが、物件までは歩いていくことになった。道すがら棚橋は身の上話を始めた。棚橋自身は昔からヤンチャで傷害事件で逮捕歴もあり、兄はそれ以上に『ヤバい』とのこと。両親を亡くしてからは食い扶持として今の不動産屋を運営している。小さな不動産屋であり、危ない話も舞い込んでくることから、初めて電話してくる客には不愛想にしているという事だった。
棚橋は途中の自動販売機で冷たい飲み物を買ってくれた。意外に人情のある人なのかと武は少しホッとした。
物件に着くと、そこは裏路地を入った狭い通路を抜けて、袋小路になっているような場所だった。棚橋の言った通り建物の隣には墓地があり、一部の墓は草が伸び放題で夜は不気味だろうと思った。物件の方はというと、小さな庭があり南を向いた大きな窓と、錆びついた勝手口が見えた。2階はトタン屋根になっていて4世帯が入れる作りになっているようだった。
『3号室ね』
棚橋は唐突にそう告げた。どうやら自分は3号室に入居することになるらしい。棚橋にほかの入居者について聞いてみた。
『1号室はあんたと同じ学生さんだよ。歳も同じくらいじゃないかな』聞いてみると、この学生は同じ大学に通う1つ上の先輩らしかった。『2号室はシングルマザーの女の人。結構美人で、前は受付の仕事をやってたみたいだけど、どうやらそれが宗教団体らしくてさ。その団体が詐欺かなんかで解体されて職を失ったんだけど、教祖だった男とヤッちゃったみたいで半年前位に子供が生まれたらしい。金が無くて、バイトしながら今年の春から住み始めた。4号室はもう10年くらい住んでる婆さんで、剣持さんと同い年くらいじゃないかな。日雇いの仕事ばっかりやってるから殆ど家には居ないけどね。』
武は、棚橋にあまりプライベートな話はしないほうがいいなと心に誓った。1号室の住人が自分と同じ大学の学生というのは、武にとって心強い情報だった。
『今度の月曜からでいいかな?今月は日割りにしろって剣持さんに言っておくから。あ、家賃の支払いは剣持さんに手渡しね。』そう言うと棚橋はポケットから取り出したキーホルダーから鍵を一つ外して武に手渡した。武はギョッとしたが、それもこの家賃なら仕方ないかと自分を納得させた。
棚橋が帰った後、武は大家に挨拶に行った。
『ごめんください』
先ほどまで棚橋と話をしていた大家は、庭の植木鉢に水やりをしていた。『あー、棚橋さんから聞いてますよ。3号室でしたよね?棚橋さん怖かったでしょ?』意外に大家は話しやすい人だった。
年齢は68歳で一人暮らしをしている剣持 壮一(けんもち そういち)。丁度30歳のころにこの家を建てたが、奥さんがギャンブル依存症で1,000万円近い借金を背負って自殺してしまってから、2階を改築して賃貸として生計を立てているとか。奥さんの事と隣の墓場の事で悪い噂が絶えず、以前委託していた不動産会社から見放されてしまったところ、縁があった棚橋に相談して今に至るとのこと。
『棚橋さんはね、見た目は怖いけどいい人ですよ。本当にいい人で・・・』
そうなのかと思った武だったが、遠い目をしてた剣持の言葉には何か違和感があった。月曜から契約が始まるという事だった為、今日明日の土日で引っ越しをする必要があった。とは言え、衣服くらいしか持ち物が無かったので、今日はバイトに行って、明日引っ越しをすればいいと武は考えていた。剣持にその旨伝えると、武は友達の家に帰っていった。
奇妙な出来事
予定通りに引っ越しを終えて、武は人生初めての一人暮らしを始めた。粗末な台所が付いた6畳一間の部屋は、裸電球が付いてるだけで、まるでドラマで見た事がある独房のような雰囲気だった。収納スペースも押し入れしかなかったので、両親が送ってくれた掃除機やアイロンは置き場に困った。
窓は建物の庭側に一つと、玄関側の台所に一つ。ただ、台所の窓は古い建物だからかほとんど開かないため、これからの夏場は換気扇を常時付けっぱなしにして風通しを良くする必要があった。ユニットバスも想定していたほど汚れてはいなかったので数日のうちに慣れたが、唯一武が嫌だったのは、やはり窓から見える隣の墓地の存在だった。
夜になると風に揺られた卒塔婆の音が不気味に響き、蒸し暑い夏の夜の雰囲気も相まって少し怖かった。棚橋の言った通り、何か心霊現象が起きるという事はなかったので、墓場の存在さえなければ武にとっては苦にならない生活環境だった。
生活している中で、何度か住民とも話す機会があった。1号室の学生はやはり武と同じ大学の2年生で、親からの仕送りを貰っているため、バイトはしていないらしい。武は羨ましくも思ったが、1日中ここにいる事を考えると、それはそれで苦痛ではないかと感じた。2号室のシングルマザーは『小松 玲奈(こまつ れいな)』という女だった。赤ん坊を背負って路地を歩いている事が多く、特に最近は付くなってきたので大変だと言っていた。大家の剣持が分けてくれるカレーや肉じゃががとても助かっていると話していた。
4号室の住民は棚橋の言った通りほとんど家に居なかったので、一度しか話をしたことが無かった。80代にしては元気なお婆さんで、重田という名前だった。重田と初めて話したときに変わった印象を武に与えたのは、剣持の事を『神様』と呼んでいたことと、重田の表情にどこか違和感を覚えたからだ。きっとこの歳になっても毎日働いているからだろうという事にしていたが、その後一度も重田とは顔を合わせなかった。
棚橋と小松が言っていた大家の『お裾分け』だったが、武は一度も口をつけた事が無かった。というのも、武は潔癖症気味なところがあり、人が手を付けた食べ物は食べられないという傾向があった。だから、友達の家で同居させてもらっていた時も、食事に関しては完全に独立した形で食べていた。悪いとは思いながらも、武は大家からもらった食事には手を付けず、毎回トイレに流してパックだけ綺麗に洗って返していたのだ。
夏の暑さと大家のお裾分け、夜中の墓場の雰囲気以外は慣れてきたころ、ついに武は奇妙な体験をすることになった。
いつも通りバイトから帰ると、すでに時間は23時を回っていた。その日はコンビニのバイトの日だったが、夜間シフトのメンバーが遅刻したため、出勤するまで武は店頭に残っていたのだ。お詫びで受け取ったカップラーメンにお湯を注ぐと、武はそれをテーブルに置いた。ふと窓の外を見ると、墓場の方で何かが光っているような気がした。
気配を消して恐る恐る窓の外を見ると、ユラユラと揺れる火の玉の様なものが見えた。思わず手で口を押えた武の耳に、さらに追い打ちをかけるように人の声の様な音が聞こえた。何を言っているか分からなかったが、文章というよりは単語を2つか3つ喋っているような、ハッキリとしないような声に聞こえた。ついに見てしまったと思った武はカーテンを閉めて、何もなかったかのように急いでカップラーメンを啜った。
しばらくすると、『人の声の様な音』は聞こえなくなったのでカーテンの隙間から改めて墓場の方を見てみると、先ほど武の背筋を冷たくした火の玉も見えなくなっていた。次の日になって友達の家に行って昨晩の話をしてみたが、どうせ気のせいだろうという事で落ち着いた。
友達の家から帰ると、玄関のところで1号室の先輩学生と出くわした。特に話すこともなかった為軽く挨拶をすると向こうも挨拶を返した。しかし、その様子は以前と比べて何となく元気が無いように感じたのだ。目は虚ろで、心無しか少し痩せたように見えた先輩学生に対して、『どうされました?具合でも悪いんですか?』と武が声をかけたが、先輩学生は首を横に振って部屋の中に入っていってしまった。こちらが心配して声を掛けたにも拘らず不愛想な人だと思った。
武は自分の家に入ると、実家から送られてきた野菜の箱を開けてみた。祖父母が畑で野菜を育てているので、その野菜を送ってきてくれていたのだ。可能な限り出費を抑えたかった武にとっては非常にありがたいことだ。長ネギや茄子、ジャガイモなどが入っていて、それらをリサイクルショップで買ってきた小さな冷蔵庫に収めた。
空になった段ボールを丁寧に畳んで押し入れにしまうことにした。何かあった時に使えると思ったからだ。何気なく押し入れの戸を開けた武の足元に何かが落ちてきた。それはスケッチブックくらいの大きさの画用紙だった。段ボールを脇に置いて画用紙を拾ってみた武は、その異様な中身に思わず画用紙を投げてしまった。
そこには、ボールペンで描かれたと思われる絵が描いてあった。恐らく人の顔を描いたものではあったが、目の大きさが左右で違い、鼻は折れ曲がったように捻じれており、口は爛れた様にグチャグチャだった。最も武が恐怖を感じたのは、その絵の中で一番大きく描かれた顔の頭部がには髪の毛が無く、手術で開いたかのような、脳ミソが露出したような絵が描かれていたのだ。
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