鈴落ちの洞窟で与一が見たのは、片腕と片脚を切り取られた死体だった。その死体の先には洞窟の出口が見えたものの、洞窟を出たところには気味の悪い人骨がうず高く積まれていた。与一が見た死体は集落に住む千鶴子の父だった。集落の大人たちの反応と奇妙な符号に、与一と弥生、千鶴子はその先にある謎を解き明かそうとするが、今はその奥に隠された恐怖の真相を知る由もなかった。
灯火
与一は、弥生と千鶴子と示し合わせて、大人たちの寝静まる夜を待った。3人はそれぞれランタンを手に、与一を先頭にして鈴落ちの洞窟へと足を運んだ。冬の雪山はそれだけで危険ではあるが、月明りしかない中で、木々に囲まれた山道は一層暗く感じた。
洞窟の目の前まで来ると、与一は風が凌げることを知っていたので少し急いだが、弥生と千鶴子は噂でしか聞いたことがなかった鈴落ちの洞窟にたじろいでいた。次の瞬間、ゴオォーッという山の夜鳴りが吹き抜けて、二人のランタンの灯りを奪った。弥生と千鶴子は真っ暗闇の中、与一の『こっちだ!』という声とわずかなランタンの灯りを頼りに鈴落ちの洞窟へと初めて足を踏み入れた。
『ザッ、ザッ』という自分たちの足音だけが響いている洞窟の中を、弥生は与一の袖をつかんで、千鶴子は弥生と手を取って進んだ。恐らく自分達だけしか居ないであろう洞窟の中は、外と違って風が穏やかでありながら、ほとんど何も見えない恐怖で、弥生と千鶴子は声が出なかった。
『もう少しだ』と与一は例の祭壇のような場所に差し掛かると、『千鶴子、本当にいいか?お前の父さんはまだ・・・』とゆっくり話しかけた。千鶴子は『うん』と一言だけ返事をすると、亡き父の死体があったという石積みの祭壇のある辺りをまじまじと見つめた。
恐らくあれが父の死体だろうと思われたが、千鶴子はそれ以上目を向けることは出来なかった。『先を急ごう』と二人に声をかけて、人骨の山がある出口へ向かうよう与一を促した。外の風の音がだんだんと大きくなってきて、月明りがほんの少し白く差し込んだ出口が見えてきた。
与一は、自分のランタンが消えてしまっては帰り道に困ると考え、風の当たらなそうな隅っこのほうへランタンを置いた。ランタンの灯りと微かな月明りに照らされた人骨の山が、3人の前に鎮座していた。
『これだ』と与一はつぶやくと弥生と千鶴子は、恐る恐るその人骨の山へと近づいた。その瞬間、少し強い風が吹いたと思った刹那、山積みの人骨から腕か脚か分からない骨が『ゴロゴロッ』と音を立てて落ちた。
3人は驚いて声を上げたが、誰かに気付かれてはまずいと思い、お互いに目を見合わせて口元に人差し指を当てがった。ふいに与一は奇妙なことに気付いた。先ほど3人を驚かせた骨がランタンの灯りに照らされているのだが、どうやら片方の端は何かで切られたように平らな表面をしていた。
『あの時と同じだ』と与一はつぶやいた。『何が?』千鶴子は与一に尋ねると、『あの死体・・・いや、お前の父さんは、腕と脚が何かで分断されたように切られていた。その様子とこの骨の断面が似ているような気がするんだ』与一はそう言うと、ランタンを人骨の山の方へ向けてみた。
するとどうだろう、いくつかの骨の端は、どれも鉞や斧で叩き切られたような断面に見えたのだ。『これって、死体をここに持ってきただけじゃなくて、その前に腕とか脚とか切られてるってことだよね?』弥生が言った。『恐らくそうだろう』と与一が答えると、『なんで?』と千鶴子は不思議そうにつぶやいた。
もし3人が言うように、これまでの犠牲者に共通点があるとすると、いづれの死体も、腕や脚が切られた痕跡があるという事になる。男性ばかりが犠牲になっているという事と、腕や脚が何らかの理由で切断されているというのが今回の事で明らかになった共通点だ。
3人はとりあえず寒さも厳しいので一旦引き返そうということで、一つになってしまった与一のランタンを3人で囲いながら、自分たちの勇気が消えないように、ランタンの灯火を吹きすさぶ風から守りながら家路についた。
千鶴子の母
次の日から、与一の頭の中には大きな疑問が消えなかった。なぜ男性ばかりが犠牲になるのか。なぜ冬の時期に犠牲者が出るのか。なぜ腕や脚が切り取られたような跡があるのか。なぜ、犠牲者が出た時には洞窟の入り口にクマよけの鈴が落ちているのかーー。
考えれば考えるほど分からなくなった。また、与一にはもっと気になることがあった。集落の大人たちに鈴落ちの洞窟の話をすると、賀次郎のように知っている事を教えてくれる人物と、母や祖母のように洞窟に近づくなという事ばかりで、詳しい話をしようとしない人物がいるということだ。
その時、与一にある考えが浮かんだ。
千鶴子の父が犠牲になったと分かった時に、千鶴子の母が言っていた言葉が、何か意味がある気がしたのだ。『うちの順番じゃない』と主張した千鶴子の母はきっと何かを知っているはずだ。もし何かを知っているとしたら、それは鈴落ちの洞窟の秘密に違いない。与一には確信があった。ひとまず、母や祖母の目を盗み、千鶴子の母に話を聞いてみようと思った。
『ごめんください』与一は湖で洗濯をしていた千鶴子の母に声をかけた。
『あら、与一じゃない。この前は大変だったわね。今日はどうしたの?』千鶴子の母はチラッとこっちを見たが、すぐにまた向こうを向いて洗濯を続けた。冬の晴れ間は貴重なもので、作物を取りに行く者が多いが、千鶴子の母は洗濯をしていることが与一は少し気になった。
『畑仕事はしないんですか?』与一の不意の一言に千鶴子の母は一瞬動きを止めたように思えた。『なんでそんなことを?』千鶴子の母は姿勢を変えずに返答した。
『いや、うちの母は晴れているうちに畑の作物を収穫しなきゃってうるさかったもので。どこのうちでも同じなのかなって思いまして。』与一は手ごろな石を湖に投げて水切りをした。『あら、うちはこの前タロイモを収穫したから、今は間に合っているだけよ。』と千鶴子の母は俯いて言った。
与一はまっすぐ湖を見つめながら、深く深呼吸をしてから続けた。
『きっと、千鶴子は気づいてないと思います。ただ不幸な出来事が起きたと思っています。』唐突にそう言った与一に、千鶴子の母は立ち上がった。『どういうこと!?』与一は微動だにせず、湖を見つめながら次のように言った。
『僕もこの想像が自分の思い違いであればいいなと何度も思いました。でも、犠牲者の共通点、洞窟で見たこと、この前おばさんが口にした”順番”という言葉。そして、この地域の状況を考えれば、おのずと答えは出てくるような気がしたんです。千鶴子には、僕のこの考えは伝えていません。きっと千鶴子は真実を知った時、壊れてしまうだろうから。』
『ちょっと・・・』千鶴子の母が口をはさんだ。それを遮って与一はつづけた。
『きっと僕の考えが正しければ、千鶴子の父さんが殺された時、本当は僕が犠牲になる番だったんじゃないんですか?それが、おばさんは分かっていたんじゃないですか?だから、順番じゃないって言ったんですよね?』と与一は捲し立てた。
『千鶴子を傷つけない事が重要なのか、自分たちのエゴを守ることが重要なのか、よく考えていただければいいと思います。』
それだけ告げると、与一は千鶴子の母を残して立ち去ろうとした。
『それと、』与一は立ち去ろうとした歩みを止めて、一言だけ付け加えた。
『それと僕は、この考えを祖母と母にも伝えるつもりです。きっと二人も理解してくれると思います。このまま古いしきたりを続けていても、不幸になる人が増えるだけだって。』与一は小さな声だったが、まっすぐ千鶴子の母の目を見て言い放った。それだけ言うと、与一はそこから立ち去った。
与一はその足で自宅へ帰ると、母と祖母を呼び止めて、鈴落ちの洞窟に行きたいと言った。『何を言っているんだ』と咎められたが、千鶴子の父の死体の残された腕の手の中に衣服の切れ端を見たと伝え、それが誰かの服なのではないかと思っていると伝えた。
もし誰のものか分かれば、千鶴子の父が誰に殺されたのか分かるはずであり、言い伝えとか伝説とかではなく、集落の人間の仕業だということが証明できるはずだと説明した。
母も祖母も黙ったままだったが、与一が一人で洞窟に行くことを好まなかったため、無言のまま与一と共に鈴落ちの洞窟へと足を運ぶことにした。
祖父の思い出
鈴落ちの洞窟へ向かう間、与一はずっと黙っていた。何か意を決したように、まっすぐ前を見据えたまま、振り返りもせず、ただただ真っすぐ洞窟の入り口を目指した。母も祖母も足腰は強かったので、それほど後ろを気にすることもなく与一は歩いて行った。
洞窟へたどり着くと、例の祭壇を通り抜けて、人骨の山のところまで出た。
『それで、その衣服とやらはどんなだい?』と祖母が与一に尋ねた。与一は答えなかったが、肩を震わせていた。顔を上げた与一は、両目いっぱいに涙を溜めて、嗚咽しながら話し出した。
『千鶴子の父ちゃんを殺したのは、ばあちゃんだよな?』
あまりに唐突な孫の言葉に、祖母は動揺を隠しきれなかった。『与一、突然どうしたの!?』母は叱り付けるような口調で与一に駆け寄った。
『母さんは・・・いや、母さんだってわかっているんだろう?』与一は母の顔を睨んでそう言った。
『千鶴子の父ちゃんが殺されたって俺がみんなに伝えた時、千鶴子の母ちゃんは”うちの順番じゃない”って叫んでた。母ちゃんや、ばあちゃんたちがそれを必死に止めていた。本来家族を亡くしたはずの千鶴子の母さんに何故みんながあんな風に言ったのか。それに、なんで千鶴子の母さんは、悲しむんじゃなくて怒っているのかって事がずっと気になってたんだ。』
『それと、以前ばあちゃんがじいちゃんの思い出について教えてくれた時に、何となく変な感じがしてた。”じいちゃんの食事は一度しか食べたことがない”って。あれって・・・』
与一がそこまで言いかけると、祖母が木彫りのような乾いた手で顔を覆いながら話し始めた。
『ああ、そうだよ。おじいさんを食べたんだよ。』
想定はしていたことではあるが、与一は改めて言葉でそれを聞いた時、吐き気を催した。なんと、自分の祖母は夫である祖父を殺して食したという事をあっさりと白状したのだ。
ということは千鶴子の父親を殺した後も、その後集落で千鶴子の父を食べたことになるため、自分もそれを食べてしまったのかという不安と、人殺しをした後も平然とした顔をして普段と変わらない生活を送っていた祖母に対して嫌悪感すら覚えるほどだった。
『羅臼湖の近くは昔から貧しい地域でのぉ。作物もろくに育たない気候だから、動物も食べ物がなくてだんだんと狩りも不猟が続いていた。ワシが18の時じゃ。ワシの父親が鈴落ちの洞窟へ出かけて帰ってこなかった。母にどうしたものかと聞いたらあっさりと答えたよ。今日の夕飯が父さんだよってな。』
祖母の話は想像を絶する話だった。昔から食べるものに困っていたこの地域では、食人が慣習的に行われていたそうだ。ただし、若い人間にそのことが伝わってしまうと集落からいなくなってしまうため、年長者だけにその慣習は伝えられていた。
出産をした女性を中心にこの習慣が伝えられ、そのしきたりに背くものは、『謀反もの』として処刑された。しかし、自分たちが生き残るために、ほとんどの者はしきたりに逆らうことはなかったという。男性ばかりが犠牲になっているのは、食肉として有用な体形が多いからであり、女性は脂肪分が多く食用には適さないということと、今後の集落の人数を安定させるためには、女性が少なくなると都合が悪いからというのだ。
また、病気をしているものや痩せているものについては食べるところが少ないので、若者と同じように、犠牲にもならないが、しきたりについても教えないという決まりになっていたそうだ。
犠牲者を殺す役割は最長老が選任された。今で言えば与一の祖母である。せめてもの計らいとして、なるべく必要以上の苦痛を与えないように、力がない最長老が選ばれたというのだ。
祖母は乾いた唇でさらにこう続けた。
『18の時に自分が父親を食べたということが気持ち悪くて、しばらく何も喉を通らなかった。だけど、冬になるといざという時の食料すらないようなこの地域で、生きていくためにはどうしても食べるしかなかった。また別の人間が犠牲になった時にも、自然と食べてしまい”おいしい”とさえ感じてしまった。』
『本能的に食べることを求めることと、これまで同じ集落に生活していた住民を犠牲にすることの狭間で当然心は揺れたが、結局人間てのは最後は自分が可愛いんだなぁ。因果な生き物だと思うんじゃよ。』
時代が流れ、食人を必要としないのではという意見もあったが、一度その味を知ってしまった人間は本能的に求めてしまうようになるという。そのため、現在でもこの集落ではその悪習が残っており、その現場として使用されているのが鈴落ちの洞窟だったということだ。
犠牲者の鈴を洞窟の前に落としている理由は、誰が犠牲になったのか分かるようにして、しきたりの遂行を集落に知らしめることと、逃げられない恐怖で集落を支配するために祖母が考えたことだというのだ。
あまりにも恐ろしく、あまりにも狂気的な話に与一は気絶寸前だった。自分の家族が人殺しだったなんて・・・。自分の住む集落の人間が、自分たちのエゴのために他の住民を犠牲にするなんて信じられない思いだった。
冬の冷たい風が吹き抜け、昼間だというのに、鈴落ちの洞窟は深い闇を抱えて、与一の祖母の嗚咽が洞窟の中にこだましていた。与一は気が遠くなりそうになりながら、静かに祖母の話を聞いていた母と目が合った。長い間、山の風にさらされていた与一の体は、もう感覚がなくなっていた。
『すまないねぇ・・・本当にすまないねぇ・・・』祖母は何度も何度も繰り返しながら木彫りのような手をすり合わせて、乾いた頬に涙をにじませていた。
集落の恐怖に怯えながら、それでも父の死の真相を知らない千鶴子の待つ集落へ帰っていった。
本当の恐怖
千鶴子は与一が祖母と母を連れて鈴落ちの洞窟に行ったことを知っていた。母親から与一との話を聞いていたからだ。しかし、千鶴子の母親は父親の真相を千鶴子に話す勇気はなかった。千鶴子はモヤモヤした気分にはなったが、与一から直接話を聞けばいいと思っていた。
千鶴子は、弥生が妊娠したということを聞かされた。相手は集落の男だった。賀次郎とは違い、体は大きい男だったが、背丈はそれほど大きくない真面目な男だった。
今日はお祝いだからということで、集落のほとんどの住民が一堂に会して食事をすることとなった。今年の収穫は満足な量がなかったが、それでもせっかくのお祝いだからということで、たくさんの料理を作って弥生の妊娠を集落のみんなで祝った。
与一の祖母は木彫りのような手を擦りながら、『すまないねぇ・・・すまないねぇ・・・ご馳走様。』と呟き、弥生は生まれてくる我が子を思いながら、自分の母にこう囁いた。
『ずっと幼馴染で長い間仲良くしてきたけど、与一の食事を食べるのは初めてだね。』
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