【第15話】ドレスコード -後編-

オリジナル小説作品
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潤いのない生活の中で細やかな楽しみとして亜里沙がハマっていた『冬ソナ』。超人気ドラマだった為、コンセプトツアーに参加したいと思っていたがなかなかチケットが取れなかった。夫の勧めで訪れた金券ショップでやっと手に入れたツアーには、とある『ドレスコード』があった。

ドレスコードに従って心待ちにしていたツアーの準備をして当日を迎えた亜里沙と紗代だったが、乗り込んだバスの添乗員は、ツアー工程を説明し終えたあと不敵な笑みを浮かべた。

疑惑

貸切のバスに揺られて厚木市を通り過ぎようとした頃、亜里沙と紗代はお互いの夫の愚痴話に花を咲かせていた。

紗代:『町田さんちの旦那さんが教えてくれなかったら、今回のツアーに参加できなかったわよ。ウチの旦那なんてあたしの趣味に全然興味すらないのよ?』

亜里沙:『あら、ウチの旦那も会社がそれなりに多くて金券ショップを知ってる人が居ただけで積極的に協力してくれたわけじゃないわよ?』

紗代:『ウチの旦那なんて、“そんなにヨン様が好きなら嫁にでも行ければよかったな”なんて言うのよ』

亜里沙:『それ、ウチの旦那もこの前ぼやいてたわ!“来世は韓国人に生まれるといいな”ですって(笑)』

二人は時々真剣な目をして、時々馬鹿話のように夫の愚痴を言い合った。お互いに恋愛結婚だった事から、『昔はこんなはずじゃなかった』と言って、日頃の不満をぶつけ合った。かと言って何かが変わるはずではないことは分かっていたが、夫に必要とされていない自分達の状況を面白おかしく話した。

高速道路に乗ったバスは、予定通り目的地に向かっていた。参加者を乗せたバスは遠足や修学旅行などで使われるようなバスで、運転席の頭上にテレビがついていた。しばらくの間ワイドショーのニュースが流れていたが、突然スイッチが入ったように立ち上がった添乗員は『宜しければ、みなさんのリクエストの多い冬ソナのビデオをかけましょうか』と言い出して、テレビの入力を切り替えた。

急な話ではあったが、参加者の女性たちは黄色い悲鳴を上げバスの車内は一時的に騒然とした。マイクを手に取った添乗員の男性はバスに保管しているビデオを見ながらエピソード名を読み上げた。

参加者たちが選んだのは、シーズン1のエピソード8番『疑惑』と言う回だった。

このエピソードは、登場人物達の過去が明らかになって揺れ動く心情と、その後の展開が変化する転換点であり、参加者の人気が集まったのも納得できる回だ。

すでに何回も観ているはずのビデオに釘付けになっている参加者を尻目に、添乗員の男性は隣に座っていたツアーの主催者と思われる男性と工程表を見ながら何か打ち合わせをしていた。息を呑んで画面を見つめる参加者は静まり返っていたので、添乗員の『3日目』という言葉だけ亜里沙の耳に聞こえた。

亜里沙:『ねぇ、シークレットってなんだと思う?私は、誰かしらドラマに出ている人がサプライズで来てくれるんじゃないかと思ってるんだけど』

紗代:『そうかしら。あたしは、ドラマのキャラクターになりきって思い出に残る何かかなと思っているけど。』

亜里沙:『なにそれ、漠然としすぎじゃないの!(笑)』

目を丸くしてテレビ画面を見つめながら声を殺している参加者の静けさの中で迷惑にならないように、亜里沙と紗代は3日目のシークレットの内容について話をしていた。二人の話が尽きた頃、1回目の休憩を取る為ドライブインにバスが停車した。

『いったんお手洗い休憩とさせていただきます。次のドライブインで昼食のお弁当をご用意しておりますので、飲食は控えめにお願いしますね。』

添乗員の男性はそう乗客に向かって告げると自分の席に再度腰を下ろした。

参加者たちは続々と降りて行って、トイレに向かうもの、飲み物を購入するために自動販売機を探すもの様々だったが、亜里沙と紗代はバスの中に残った。ふと窓の外で参加者の数名が話す声が聞こえた。

『このコーンポタージュ美味しいのに、なんで買わないの?』

『あんまり大きい声じゃ言えないけどあたし糖尿病なのよ。』

『え?健康診断大丈夫だったの?』

『だって、どうしても参加したかったから問診で黙ってたら何とか通過できたのよ。』

『そうなのね。まぁ、完璧に健康な人なんていないわよね。アハハハハ(笑)』

すると、バスの外に居た男性一人がその女性たちに歩み寄って何やら話をしたところ、その状況は一変した。

『いや、冗談よ!大丈夫だから!離してよ!せっかく参加したのに!』

どうやら、糖尿病を隠して参加した女性は参加資格を満たしていないという事で、ツアーから強制的に参加取りやめになったらしい。突然の出来事に亜里沙たちは少し困惑したが、出発の時間になると参加者たちはバスに乗って自分たちの席に改めて着席した。例の糖尿病の女性を除いて。出発前に添乗員が一言マイクを持った。

『改めてお伺いしますが、参加資格について虚偽の申告はありませんか?このツアーは特別なツアーですので、参加資格を少しでも満たしていない場合は虚偽申告としてこの場でお帰りいただきます。くれぐれもお忘れないようにお願いします。』

参加者たちは互いに小さく頷きながら周りをキョロキョロして添乗員の言葉を聞いていた。先ほどまで冬ソナのビデオに陶酔していた車中とは思えない緊迫した空気が流れていた。

『大丈夫みたいですね。それでは、最高の冬ソナツアーにておもてなしさせていただきますので、存分にお楽しみください。バスは定刻通り運航しておりまして・・・』

まるで冬のアスファルトに頬をくっつけたような冷たい言い方で忠告した口振りとは一変して、表情豊かに明るい声でツアーの進行状況を参加者たちに告げた。出発後に流すビデオの候補を決める段になると、先ほどまで沈んでいた参加者たちの雰囲気も元に戻り、自分が見たい冬ソナのエピソードを口にした。

至れり尽くせり

2回目のドライブインではすでに名古屋まで差し掛かっており、名古屋コーチンをふんだんに使ったご当地弁当が振舞われた。ほんの少し濃いめの味付けで柔らかく煮た名古屋コーチンと新鮮な野菜を使っているという煮物がメインだった。

これまで食事を節制してきた亜里沙にとって久々に食べる贅沢品のように思えた。きっと参加者の誰もが同じような状況だったのだろうか、『美味しい』という驚きと感動を踏まえた声がバスの中にこだました。

『まもなくホテルに到着いたします。お手回り品をお確かめください。スーツケースなどの大きな荷物はスタッフがお客様のお部屋までお持ちしますので、バスをお降りになりましたらホテルのフロント前に集合をお願いいたします。』

高速の料金所を通って一般道に出てから5分ほど進むと、ホテルらしき建物が見えてきた。参加者たちは一様に窓の外にくぎ付けになった。20階建ての大きな大きなホテルで上品なクリーム色の外観に噴水を中央にした広いロータリー。程よく配置された植木が、その上品さを一層引き立たせて正に『高級ホテル』という様相だった。

『それではお疲れさまでした。本日ご宿泊いただく”ラグジュアリースイートプレイス・ホテル”でございます。』

仰々しい名前に引けを取らないそのホテルは参加者たちの興奮をさらに高まらせた。大きな自動ドアを進んでフロントに入ると、テレビでしか見たことが無いような広く豪華な大理石調の空間で、ホテルのスタッフ数名が整列して出迎えた。

壁には同じく大理石で作られた柱にガラスがはめ込まれた小さな滝の様なオブジェがあり、青いライトで照らされて幻想的な雰囲気を演出していた。一帯は間接照明が適度にあしらわれており、『ラグジュアリー』という名前に相応しい内装に参加者たちは息を飲んだ。

参加者たちにはそれぞれ一部屋づつ個室が用意されたが、その部屋も圧巻だった。20畳はあろうかという大きな部屋にクイーンサイズの高級ベッド、マッサージ器やミスト美顔器、ジャグジー付きの大きな風呂が用意されており、まさに至れり尽くせりだった。

『このホテルでは最高級のスイートルームをご用意させていただきました。特に、ミスト美顔器は最新式のもので、リラックス効果と共に美容にも効果があると言われております。是非ご利用ください。』

ツアースタッフから説明を受けて鍵を受け取ると、亜里沙は一度はやってみたかったベッドにダイビングするというのをやってみた。高級マットレスと上品な布団は優しく亜里沙の体を包んで、まるでそのまま埋もれて眠ってしまいそうになるほど心地よい肌触りだった。

ホテルに到着して夕飯の時間までは自由時間だったので、亜里沙は例の『ミスト美顔器』を使ってみた。自宅にある古びた加湿器で真似事をしたことはあるが、本物の美顔器というのは見るのも初めてだった。きめ細かいミストが肌にしみこむような感覚があり、スタッフの説明通りなんとなくいい香りがして気持ちが安らぐような気がした。

夕飯の時間になると『お食事のご準備が整いました』と部屋の電話が鳴った。

指定されたダイニングルームへ行くと、そこには結婚式場の様な煌びやかな内装の部屋に、たくさんの食事がビュッフェ形式で用意されていた。参加者たちも続々と集まってきては、その光景に驚きと感動の声を漏らした。

たくさんの高級ディナーとワインを飲んですっかり気分が良くなった参加者たちはそれぞれの部屋へと戻り、亜里沙は大きなバスタブで、結婚旅行以来のバブルバスを堪能し、寝る前にはまたミスト美顔器をふんだんに浴びてその日は眠りについた。

ビデオレター

豪華な食事と豪華な設備で一夜を過ごした参加者たちは、いきいきとした表情で二日目の買い物に期待を躍らせていた。夫の愚痴を言い合っていた亜里沙と紗代ですら、今はまるで貴婦人の様な上品な振る舞いを見せた。

『今日は、このツアーのためにご用意させていただいたポップストアで限定グッズをお買い物いただき、午後は穴場スポットの”冬ソナストリート”にご案内します。』

添乗員の男性が参加者にそう告げた。たちまち拍手が巻き起こり、ホテルが貸し切りで良かったとさえ思うほどの盛り上がりと歓声がその場を包んだ。案内されたポップアップストアはホテルからバスで移動し、例の『冬ソナストリート』と同じ敷地内にこのツアーのために設営されたプレハブの様な建物だった。

中へ通されると確かに街中では観たことが無いようなグッズばかりで、参加者たちは我先にとそのグッズへと群がった。亜里沙と紗代も示し合わせた様にその流れに乗った。今まで無駄遣いをせずに我慢してきた自分達へのご褒美だと言い訳しながら、気兼ねなくクレジットカードを差し出した。

昼食を終えると、いよいよお待ちかねの『冬ソナストリート』へ案内された。大きな銀杏の木が整然と並んで、黄色く染まった落ち葉が絨毯のように長い道を作っており、穏やかな風と晴れ渡った空が、まるで冬ソナの舞台の様な情景を醸し出していた。

冬ソナストリートと言っても実は地元住民の憩いの場であり、秋には紅葉スポットとして利用されている場所の為、『それらしい』イベントや場所があるわけでもなく、亜里沙は少し意気消沈していた。すると、添乗員の男性が参加者たちを集めてこう話し始めた。

『皆様、恐らく数名の方は”何が冬ソナなんだ”とお思いではないでしょうか。』

亜里沙は心を見透かされたようで少しドキッとした。

『当然今回のツアーは特別なものですから、皆様だけのスペシャルな企画をご用意しております。』

そう言うと添乗員は、銀杏並木を進んだ先にある小さな建物へと参加者たちを案内した。その建物も貸し切りとなっており、他の客はいない様子だった。小さな映画館のようになっており、3メートルほどの幅のあるスクリーンが部屋の奥に設置されていた。

参加者たちに着席するよう促すと、添乗員の男性は次のように言い残して部屋を出ていった。

『それでは皆様だけの特別な企画をお届けします。お手洗いは大丈夫ですか?いいですね?それではご堪能ください。』

添乗員の男性が部屋のドアを閉めると、照明が落ちて真っ白な画面がスクリーンに映し出された。次の瞬間、参加者たちは悲鳴を上げた。そこに映し出されたのは紛れもない『ペ・ヨンジュン』の姿だった。参加者が驚いたのは、その映像の内容だった。ミルク色の頬を緩ませて微笑みながら、参加者一人一人の名前を挙げて、画面越しに問いかけてきたのだ。

『皆さん、今回のツアーに参加いただき、ありがとうございます。今日は僕からの特別メッセージと、冬ソナの特別エピソードをお楽しみいただけたらと思います。』

ホームビデオの様な映像ではあったが、自分の名前を憧れのヨン様に呼ばれた女性たちは絶叫して涙を流すものも居た。ビデオの内容はヨン様からのメッセージと、日本では放映されていない冬ソナの特別エピソードをまとめた1時間ほどの内容だった。

特別エピソードが終わると、再びホームビデオの様な映像に戻りヨン様が登場すると、参加者たちは口々にヨン様の名前を叫んだ。

『それでは、また夢でお逢いしましょう。』

感動的な音楽と共にビデオが終わると、これまで見たことの無いエピソードに参加者全員が感動の涙を流し、ビデオが終わる頃には失神寸前の者も居て、会場は大混乱だった。さすがの亜里沙と紗代も驚きの内容に感動は最高潮になり、お互いに抱き合ってツアーに参加したことを喜んだ。

興奮冷めやらぬ中ホテルへ戻って買い物の荷物をフロントに預けると、参加者たちに添乗員の男性が話し始めた。

『本日はお楽しみいただけましたでしょうか?夕食は昨日同様フロントからご連絡いたしますので、それまでは各部屋でお寛ぎください。明日ですが、ホテルを移動していよいよシークレット企画となります。場所が明かせないので移動中はホテルを出たところから目隠しをしていただきます。ドレスコードに記載しました通りヘッドホンのご持参をお忘れなく。』

先ほどのビデオレターに陶酔しきっている参加者たちは、これ以上のシークレット企画はどんな内容だろうと想像を膨らませながら添乗員の言葉に頷いた。

参加者たちが各部屋へ戻ろうとすると、添乗員の男性は参加者たちを呼び止めて一言だけ付け加えた。

『それと、明日のシークレット企画は正装で貴金属を着用してください。また、本日は夕食前と入浴後にミスト美顔器をご利用ください。また、あまり深酒しないようにご注意ください。』

亜里沙は自室へ戻ると、今日のビデオレターの余韻に浸っていた。憧れのペ・ヨンジュンから自分の名前をフルネームで呼ばれた瞬間の高揚感。それはまるで初恋の高揚感にも似た甘酸っぱいような新鮮な感覚を覚えた。

当然最終日の明日は今日以上のサプライズがあるのだろうと妄想して、夕飯も腹八分目で抑えてワインには口を付けずに、アロエジュースを意識的に飲んでいた。

夕飯が終わると入浴を済ませてミスト美顔器を使ってみたが、昨日とは違う香りにフワフワした気分になり、気を抜くとそのまま眠ってしまいそうになる程気持ちが良かった。

揺れるバス

いよいよツアーの3日目。これまでのツアーの内容から勝手な妄想に期待を膨らませた参加者たちは、集合時間よりも早くホテルのフロントに集まっていた。思い思いの『正装』と貴金属を身に付けた女性たちは、まるで結婚式へ向かう人達のように思えた。

添乗員とツアースタッフもフロントへ訪れると、無言のまま参加者の服装の確認を念入りに行って、バスに乗り込んだ参加者たちにアイマスクを手渡してヘッドホンの着用を指示した。以前からドレスコードにて指定があったことと、昨日のサプライズの余韻から、参加者の女性たちは疑うことなくスタッフの指示に従った。

全員がヘッドホンを着用する前に、添乗員の男性が再三にわたって参加者たちに注意を促した。

『本日は以前からお知らせしております通り、シークレット企画となっております。皆様にはご不便をおかけいたしますが、ヘッドホンとアイマスクはスタッフが肩を叩いて合図をするまで絶対に外さないでください。故意に外されたことが確認できた時点でツアーから離脱いただきますのでご注意ください。』

1日目のドライブインで糖尿病の女性が発覚した時以来の厳しい口調で添乗員は注意喚起した。なぜそれほどまでに厳しく注意するのかイマイチ亜里沙には分からなかったが、とりあえずスタッフに促されるまま視覚と聴覚を閉ざされた状態でバスのシートに収まった。

ホテルを出てバスに揺られている間は、冬ソナのサウンドトラックを聞いていたため、暫くは夢見心地は続いていたが、亜里沙は何となく胸騒ぎを感じずにはいられなかった。ここまでして隠し通す理由があるのだろうか。そう考えると、亜里沙は期待感よりも不安の方が大きくなってきた。

1日目に見た糖尿病の女性に対して詰め寄るスタッフの姿、今朝のスタッフの口調。尋常ではないほど厳格にドレスコードを守らせようとする姿に違和感を感じていた。

暫くバスが走っていると、少し道の悪いところに入ったようで、ガタガタと揺れる振動を感じた。当然視界が閉ざされているためどのような場所を走っているのか分からないが、恐らくアスファルトではないだろうというような、舗装されていないような場所を走っているような振動がシートを通じて伝わってきた。

とたんに、バスが大きく跳ね上がってガタンと着地したような大きな振動と共に亜里沙の体はほんの少しだけ浮いて、ジェットコースターで感じた事のある気持ち悪さを感じた。着地した衝撃で意図せず亜里沙のアイマスクとヘッドホンが少しずれて、かすかに周りの様子を窺い知ることが出来た。。そして、その状況に亜里沙の背筋は凍り付いた。

なんと、バスの中央にある通路にはツアースタッフが立っていたが、いづれのスタッフも手に拳銃を持ち、銃口を参加者に向けながらの様子をつぶさに観察していた。亜里沙の視界に入る範囲では、ほかの参加者はその状況に気付いていない様子だった。

バスの前の方を見ると、添乗員の男性が立っていたが、やはり彼も拳銃を持っており、運転手のこめかみに銃口を当てて何やら指示を出していた。

『変な気を起こしたら、命はないからな。今これがどういう状況か分かっているよな』

運転手はガタガタ震えながらハンドルを握りしめていた。車窓から微かに見える外の景色は、やはり普通の道路ではなく、田舎道の様な細い道を走っているようで、山道の様な建物もあまりないような場所に思えた。

予想だにしない状況に亜里沙の心臓は鼓動が早くなったが、もし自分が気づいたことをスタッフに悟られれば何をされるか分からない。しかし、他にどうやってこの状況を切り抜ければよいのか・・・。逆に、このままどこかへ行くとしても、その先で待っているのは・・・。とてつもない不安に襲われた亜里沙は必死に考えたが、この状況を打開する方法は思いつかなかった。

すると、先ほどと同じようにバスが大きく浮き上がったかと思うと、左側の側面が何かにぶつかったような衝撃と共にバスが急停車しているのが分かった。参加者たちもさすがにこの時ばかりは悲鳴を上げた。どうやらバスがスピードを上げ過ぎて、ハンドルを取られ何かにぶつかって事故を起こしたようだ。

ガリガリと何かに擦れるような音と強烈な振動が車内を包みバスがようやく停車したころ、ツアースタッフと添乗員の男は一目散にバスを降りて外で何かしている様子だった。どうやら、荷物入れの中の貴金属を持ち出しているらしい。

『ずらかるぞ!』

添乗員の男がそう叫ぶと、ツアースタッフの男たちは走り出しその姿は見えなくなった。冷や汗を滝のように流しながらヘタレ込んだバスの運転手は無線で警察を呼んだ。乗客にけが人はいなかったようで、一応火災が起きると危険な為運転手の誘導で全員がバスから降りることとなった。

事の顛末

参加者たちは、駆け付けた警察と救急車に保護されて、取り調べの後帰宅することとなった。警察の話を聞いた亜里沙は、ツアーの実態について聞かされて青くなった。

実は、このツアーの主催者は例の添乗員と数名の男性で、これが今回のスタッフだったらしい。彼らは裏の組織と通じており、参加者の持ち物や貴金属などを売り払い金に換えて、参加者たちを人身売買しようとしていたようだ。

冬ソナをテーマにしたのは理由があった。裏の組織は世界的なネットワークがあるらしく、秘密裏に研究されている化学物質の薬品のテストをする為に『極度の幸福』と『極度の恐怖』を被験者に対して与える必要があったとのこと。この二つが影響した脳の状態で薬品を投与したときの反応を調べるのが目的だったらしい。

要は、冬ソナ好きな女性を集めて、一時的に『最高の体験』によって幸福感を味あわせ、最終的には人身売買という事実を突きつけ恐怖のどん底に陥れるという計画だったようだ。2日目に流れたペ・ヨンジュンのホームビデオも実はそっくりさんで、声のトーンなども機械的に操作された作り物だったようだ。

そこまでして研究されている薬品とはどのようなものなのか参加者たちには説明されなかったが、表の世界の話ではないことは確かだ。例の金券ショップは割のいいツアーパックを販売していただけの様で真相は知らなかったらしいが、違法な商品の販売に加担したという事ですでに摘発され、ツアースタッフたちはその後も行方は分からないという。

この話を聞いて、ようやく亜里沙はあのドレスコードの意味が理解できた。

正装や貴金属を求めたのは金に換えるために少しでも高価なものを持たせるため、健康診断を受けさせたのは、薬品のテストや人身売買のための基準を満たしているかどうかが問題だったのだ。1日目に帰された糖尿病の女性はその後どうなったのかと警察で聞いてみたが、行方が分からないという事らしい・・・。警察署から出る時に亜里沙と紗代は顔を見合わせながら、言葉にならない恐怖に身震いしていた。

せっかくの旅行がこのような幕引きをするとは思ってもみなかった二人は、それ以来冬ソナ熱も次第に冷めていった。2000年代に入り犯罪が巧妙化する中、大規模な組織的犯罪が増えている。何気ない生活の隙間に入り込んだ魔の手に捕らえられてしまった亜里沙と紗代だったが、辛くも今回は事なきを得たのだ。

『ただいま。』

スーツケースを玄関に立てかけて、洗面台のところで何か書類を見ながら立っている夫に声を掛けた。夫は見向きもしなかったが、この数日間の恐ろしい体験を亜里沙は話して聞かせた。いつも通り上の空で聞いていた夫ではあったが、亜里沙は何となく『いつも通り』の生活にホッとした気分にもなった。

・・・しかし、夫が亜里沙の話を上の空だったのは、興味が無かったからではない。その手には握られた紙切れに、『報酬振り込み見送りのお知らせ』と書いてあったからだ。

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