【第10話】疲れた顔 -後編-

オリジナル小説作品
この記事は約16分で読めます。

ボランティアに汗を流して、普通の暮らしをしていた守の隣人となったのは、若夫婦の大森夫妻。その夫妻から引越し前に聞いた、『妙な呪い』の話。やがて夫妻は引っ越しを決め、暫くすると待望の第一子が産まれた。幸せを絵に描いたような二人と守は親交を深めていくが、ある日悲劇が起こってしまう。大森夫妻の一人娘の恵美が亡くなった。

悲嘆に暮れた夫妻は、次第に様子がおかしくなっていく。妻の玲子は譫言のように呟きながら夜を徘徊し、壊れたテープレコーダーのように、同じ言葉を繰り返しながら電話をかけてくる。夫の新平は自宅前で頭を抱えてしゃがみ込んでいる所を守が声を掛けるが、一人にしないでくれと懇願する。仕方なく自宅に住まわせる事にした守は、この先どうすればいいものかと路頭に迷ってしまう。そんな守を、目を背けたくなるような事実が襲うとは、誰も思っていなかった。

スポンサーリンク

新平の頼み

あれからと言うもの、新平は守の家で塞ぎ込んでいた。食事もほとんど口にせずやつれてしまい、相変わらず疲れた顔をしていた。守が夜中に起きてみると、真っ暗な部屋の中で押し入れに向かって何かを呟いているような声が聞こえたり、呆然と窓の外を眺めていたり、もう正気ではないと言う様子が見て取れるようになった。引っ越してきた日の夫妻の笑顔がまるで映画や小説のように、作られたものだったのかと思うほど、守には全く違うものに感じられた。

ある日の朝、久々に新平が話始めたと思うと、こんな事を守に頼んできた。

『あの・・・埼玉の駅まで一緒に行ってもらえませんか・・・』

ゆっくりゆっくりとした口調で、小さな声ではあったが、何か悟ったかのような目をして新平は守にそう話した。そう言えば新平の出身は埼玉だったと以前聞いたことがあったので、実家に帰るつもりなのか。ただ、今の精神状態では不安があるから、守に同行を依頼してきたのか。窓の外を見つめる新平の背中を見ながらそんな風に思った。ここから埼玉なら、電車で1回乗り換えをすれば1時間もしないうちに行ける距離だったので、守は新平の申し出を了承した。

外はもう秋風が吹いていた。そう言えば、夫妻が越してきた時はまだ夏前だったよな、なんて事を守は考えながら新平と駅まで歩いた。その道すがら、新平は辺りをキョロキョロしながら歩いていた。その様子に気づいた守は、『どうかされましたか?』と声をかけたものの、新平は返事もせず何かに怯えている様子だった。もうすぐ駅が見えてくる頃、守は帰ったら玲子の様子を見に行こうと考えていた。

平日の昼間の電車は比較的空いていて、シートに座ることができた。おそらく紅葉を見に行ってきたんだろう様子の老夫婦や、ゴルフバッグを抱えた、いかにも金持ちの男性、修学旅行を間近に控えてはしゃぐ学生など、電車の中はそれなりに明るかった。それに比べて、虚な目で床を見つめる新平はどんよりとしていて、同じ空間にいるとは思えないほど沈んでいた。

乗り換えの駅に着くと暫くの時間があった。缶コーヒーを買って新平にも勧めたが、新平は首を横に振った。守は新平のコーヒーをカバンに仕舞うと、次の電車を待つためのホームへと新平を促した。ホームにはそれほど人は居なかった。下り電車のため、利用客が少ないのだろう。そんな事を考えながら、あともう少しで電車が来る時刻だと言う頃だった。ホームに佇む新平の背中を見つめながら、守はふと右の頬から耳にかけて気配を感じた。チラッとそちらを見ると、そこに立っていたのは玲子だった。

新平と同じようにゲッソリ痩せてしまい、目は落ち窪んでいるような顔つきだったが、さすがにお隣さんの顔は守にも判別できた。『あ、玲子さん、こんなところで。お一人ですか?』と守が声を掛けるが、玲子は反応しなかった。正確に言えば『守の問いかけには反応しなかった』が、何がブツブツ言っているような気がして耳を傾けてみた。すると、以前電話口で聞いた『一緒に見つけて欲しいんです・・・きっとどこかにいるはずだから・・・』と呟いている気がした。誰に言うでもなく、独り言を口にする玲子は少し不気味に見えた。

思いがけない事ではあったが、新平と玲子が同じホームにいるなら、一旦埼玉まで二人を送り届けよう。その後ご両親か誰かと話をして、今後のサポートをお願いしようと守は考えていた。二人ともこの状態では、さすがに自分一人ではどうにも出来ない。きっと、地元に戻れば二人も少しは落ち着くんじゃないだろうか、自分の役割は、この後二人を無事に埼玉まで送る事だと守は考えていた。

駅のホームには電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。守はこの後に来る電車に乗ると思っていたが、どうやら通過列車があるみたいだった。暫くすると右手から貨物輸送の電車が警笛を鳴らしながらホームに向かって走ってきた。車輪が軋んでガタガタと地面を揺らしながら、茶色と紺色の電車が見えてきた。その時だった。守が止める間もなく、玲子が新平を目の前の線路に突き飛ばし、新平は力無く線路の上に落ちていった。

ほんの一瞬の出来事だった。だか、守にはそれがスローモーションのように見えた。玲子が不意に新平を突き飛ばして線路に落ちていく時、守と目が合った。その目はいつもの虚な目で守を見ていたが、何かを悟ったような目で疲れた顔をしていた。それとともに、貨物列車が減速をしないまま新平目掛けてホームに侵入し、新平を撥ねた。撥ねたと言うよりも、新平を押し潰したような状態だった。新平が電車に轢かれるその瞬間まで守と目が合っていたが、その後電車だけが守の視界を埋め尽くした。

守は初めて目の前で人が電車に跳ねられる瞬間を目撃してしまったため、猛烈な吐き気と眩暈で立っていられなくなった。微かに聞こえるのは、急停車する時の車輪の音と、騒然とするホームの人々の声だった。ホームには緊急停止を知らせるアラーム音と、慌てふためいた事故発生を告げる駅員の声が響いた。守は意識が朦朧としてその場に倒れ込んだ。誰かに話しかけられたかもしれないが、よく覚えていない。薄れゆく意識の中で、電車に撥ねられる直前の新平の疲れた顔だけが鮮明に脳裏に焼き付いていた。

スポンサーリンク

事故の後

消毒液のような匂いと白い天井に気づいた守はゆっくり目を開けた。夢だったのか?確か覚えているのは、新平が電車に轢かれた事。ゆっくりと電車に潰されていくスローモーションの新平の姿を思い出すとまた吐き気がしてきたので、守はなるべく頭の中で考えないようにしていた。辺りを見回してみると、そこは病院だった。部屋の外にいた看護師が自分の元へ駆け寄り、『有吉さん?有吉さん?大丈夫ですか?』と声を掛けられた。頭はズキズキするが意識はある事を告げると、看護師がどこかへ連絡していた。暫くして、医者が来て問診された。どうやら、例の一件でその場で気絶した守は、頭を打って3日間昏睡状態だったらしい。

医者の話によると、脳震盪を起こしていたため暫くは入院生活となるが、目が覚めたのなら次第に回復していくとこだろうと告げた。守の回復を聞きつけた親戚が面会にやってきた。とりあえず大丈夫だと話してその日の面会時間が終わった。事の次第を理解し始めた守にとって、どうしても避けられない事があった。それは、『あの後どうなったのか』と言う事だ。あの時、新平と駅のホームにいた。その後玲子と話した。突然、玲子が新平を突き飛ばした。そして・・・。自分が覚えているのはそこまでだったが、やはり思い出すと気分が良くなかった。

そんな事を思っていると、問診に来た医者と共に警察官らしき人物が守のベッドの横に腰掛けた。『あまり長い時間は勘弁してくださいね。本人が拒否したらすぐにやめてください。』と医者は警察官に話した後、『ちょっと、事件が事件なので事情聴取したいみたいなんですが、有吉さん大丈夫ですかね?難しければ断りますよ。』と守に尋ねた。守は少しの間ならと了承し、医者と看護師は部屋から出ていった。看護師が置いていった粉薬を口に含んで水の入ったコップを手に取ると、テレビで見た事があるような、胸の辺りに無線機をつけた警察官が2人、守に話始めた。

『有吉さん、体の具合はどうですか?あなた、事件があった後その場で失神して頭を打ったみたいです。骨折とかは無いみたいですが、打ちどころが悪かったら結構危なかったみたいですよ。』警察官はベッドに横になった守に向かって、とりあえずの見舞いの言葉を告げた。それから具体的な話を切り出した。

『まずは、お亡くなりになった大森新平さんについて伺いたいのですが、我々が調べた結果としてはお隣さんと言う事ですが合ってますか?そして、埼玉県に向かう電車に乗ろうとしたところで事件が起きたと。どうですかね?』そう話した警察官に、守は新平との関係性を簡単に話して、新平とは暫くの間自宅で同居状態だった事、その同居状態になった理由など、大森夫妻が引っ越してきてから今日までの経緯(いきさつ)を簡単に警察官に説明した。あの日は、新平の希望で自宅から埼玉県のとある駅に向かっていたと話した。すると、もう1人の警察官が信じられないような話を始めた。

『実は、大森さんのご自宅を調べたところ、大森新平さんが書いたと思われる遺書が見つかりましてね。当日はそんな雰囲気はありませんでしたか?つまり、自殺しようとしてたみたいなんですよね。』守には耳を疑いたくなる話だった。確かに新平はノイローゼ気味ではあった。でも、あの日の朝はそんな素振りはなく、前向きな提案だと自分は思っていた。仮に新平が遺書を残しており自殺しようとしていたとしたら、事故でも自殺でも、今回の件のきっかけを作ってしまったのは自分ということになるのか。守は少し混乱したが警察官の話をもう少し聞いてみることにした。

『それで、当日あの駅に到着してから事件が起きるまでの状況を可能な限り教えてもらえますか?』最初に話し始めた警察官が改めて守に聞いてきた。コーヒーを買ったこと、新平は飲まなかったこと、ホームで電車を待っていたら玲子と居合わせた事、そして玲子が・・・。『そうだ、奥さんはどうなったんです?奥さんは今回の件、なんて言ってるんですか?』守は思い出したように警察官に聞いてみた。しかし、警察官は2人とも顔を見合わせて不思議そうに守を見た。『いや、奥さん?あの場にいたのは大森新平さんとあなたのお二人ですよ。奥さんは・・・ちょっとこの場では・・・。』

どういう事だ。守は玲子が突然新平を突き飛ばしたと自分が見た事をそのまま話したが、警察官はそんな事はないと否定した。何故なら、駅のホームの防犯カメラを確認したところ、守と新平がホームで電車を待っていると、貨物電車が入ってきた途端に妙な動きをして新平がホームに落ちていったからだと言うのだ。自宅を調べたところ遺書も見つかったので自殺として処理しようと思ったが、カメラに残っていた新平の動きがあまりにも不自然な動きをしていたので、守の話を聞きたいというのだ。警察としては、新平が自らホームに落ちたのか、守が関与しているのかという点を聞きたくてここに来たというのだ。なんと、新平の死に守が関与しているのではと疑われていたのだ。

『奥さんの話が出たので一応お話ししておくと、奥さんの玲子さんはご自宅でご遺体で見つかりました。それも、新平さんの遺書に書いてありました。しかも、2週間以上前に亡くなっているみたいなんですよね。』

『そ、そんな・・・』

守は恐怖で震えた。まず、警察の話を正しいとすると、駅で見た玲子は生きている人間ではなかった。そもそも、先日の夜に守の自宅を尋ねてきた玲子も、電話をしてきた玲子も、すでにその時には死んでいたことになる。まだ自分は夢の中にいるのか。そう思って、横になったままベッドの掛け布団の下で太腿をつねってみたが、これはどうやら現実らしい。では、駅のホームで見かけた玲子も生きている人間ではなかったのか。自分は死んでいる玲子と話をしていたのか。新平は玲子の幽霊に突き飛ばされたのか。自分が体験した事が、全く他人に説明がつかない状況に守は頭が痛くなってきた。警察官に断って、事情聴取は後日改めて行うことにしてもらった。

スポンサーリンク

神社を探していた理由

10日ほどの入院生活の後に守は退院した。入院生活の間は治療に専念し、警察の取り調べも断り、大森夫妻の事についても考えないようにしていた。季節の移り変わりは早いもので、守が病院から出た時には秋風が冷たく感じて、自宅までの街路樹は紅葉が始まっていた。紅葉は、枯れ葉の最後の煌めきのようなもので、遠くから見ていると気づかないが、近くでよくよく見てみると葉っぱ一枚一枚はそんなに綺麗なものではない。なんなら、葉っぱがその生涯を終えて散り行く最後のメッセージの様な、時間の経過と栄枯盛衰の残酷さを物語っている様にも見える。

退院して荷物を自宅に置いた守は、その足で警察の事情聴取へ向かった。そこで聞いた話は、想像すらしてなかった話だった。警察から聞いた話はこうだ。

大森夫妻は、娘の恵美が亡くなったあと、精神的に大きなストレスを抱えていた。特に妻の変化が大きく、独り言や深夜の徘徊、突然喚き散らすなど、その対応に新平は限界を迎えていた。ある日我慢出来なくなった新平は玲子を殺害、これが、守が自宅の玄関先で見た玲子の訪問の3日前の話だ。遺書に書かれていた場所を捜索したところ、玲子と思われる遺体が発見されたという。

守の中でなんとなく自分の体験してきた事と警察の話の整理がついてきた。要は、新平は恵美を亡くした悲しみと、変わってしまった玲子に耐えかねて、玲子を手にかけてしまったという事か。改めて警察が事情聴取をした結果、守の関与は否定されたので、例の電車の事件としては新平が自殺を図った、直前まで十分な食事を摂っていなかったことから痩せており、電車の風圧でふらついたという事故として処理された。玲子の殺害は新平によるもので、被疑者死亡の殺人案件として捜査は打ち切られることとなった。

守が警察の話に納得したのは理由があった。『納得できなかったから』だ。もっと言えば、いち早く新平が使っていた和室を調べてみたいと思ったからだ。どう考えてもおかしい。自分の認識では少なくとも3回、玲子が死んだとされる日の後にやり取りをしている。玄関先、電話、そしてあの日の駅のホームだ。それに、いくら玲子の様子が変わってしまったからと言って、新平が殺めてしまう理由になるだろうか。守は、玲子が死んだ後にも自分にコンタクトしてきた訳と新平が玲子を殺めた本当の理由、そしてこの二つを繋ぐ何かがある様な気がしてならなかった。そのヒントは、新平にあてがった和室の押し入れにあると思った。

自宅へ帰り玄関の鍵を閉めた守は、すぐさま例の和室へと足を運んだ。部屋の中は新平が使っていた布団だけが残っており、一応ひっくり返してみたりもしたが何も無かった。やはりあの押し入れだ。守は襖の取っ手に手を掛けたが、その先に何があるのか想像すると少し躊躇った。知っていいものなのか、そっとしておくべきか、そんな事を考えながらそーっと襖を開いてみた。和室の電気をつけて押し入れの中をよくみてみると、上の段にはやはり恵美の写真があった。小さな写真立てに収められたその写真には、玲子が恵美を抱いてその隣で優しく寄り添う新平が写る、幸せそうな家族写真だった。思いがけず涙が溢れてきたが、下の段に目をやった時、それはすぐに引っ込んだ。

真ん中に手鏡が置かれて、その周りには蝋燭が溶けた跡が円になって床のベニヤにこびり付いていた。そしてその傍には『解怨の祷(かいおんのいのり)』という手帳と数珠、水の注がれたコップが二つ両端に蝋燭の円を挟むように置かれていたのだ。押入れの奥に目をやると、藁半紙のような紙に手形が押されており、その手形はおそらく血ではないかと思われる赤黒い色をしていた。守はギョっとして暫くの間放心状態だったが、とりあえず手帳を手に取ると中から便箋がポトリと落ちた。その手帳には『有吉守様』と自分の名前が書かれていた。開いてみるとそれは、新平から守に宛てた手紙だった。守はリビングのソファーに腰を下ろして、それを読んでみることにした。

有吉さん

この手紙を読んでいるという事は、きっと僕はもうこの世には居ないでしょう。迷惑ばかりかけて本当に申し訳ありませんでした。私は、妻を殺してしまいました。以前お話ししたように、私の家系は、いつからかわかりませんが、30歳よりも前に結婚すると産まれた子供を殺してしまうという呪いにかけられているそうです。その呪いを解きたくて、玲子は神社の場所をあなたに尋ねました。

私は迷信なんて信じていなかったのですが、あの日見てしまったんです。恵美は、僕の父が殺しました。目が覚めると父がベビーベッドの恵美を抱き上げて、何の躊躇いもなく床に落としました。突然の事に驚いて父に駆け寄ると、『ウチの呪いを解くにはこの子を犠牲にして【解怨の祷】をするしかないんだ。あとはお前に任せる』と言われました。不思議と僕はそれに従ってしまったんです。父はそのあと実家で首を吊って死にました。

玲子との幸せな家庭を築きたくて父の言いつけに従いましたが、日に日におかしくなっていく玲子を見ていると、自分までおかしくなってしまうような気がしました。結局私は、最愛の娘を見殺しにして、愛する妻も自分で殺めてしまいました。呪いだけでも解きたくて【解怨の祷】を続けていましたが、それも失敗して、次第に玲子と恵美の亡霊に追われるようになったんです。それであなたに助けを求めました。

この部屋で改めて【解怨の祷】を始めたものの、玲子と恵美の声が夜な夜な聞こえて続ける事ができず、もう、私には生きている意味も有吉さんに迷惑をかけ続ける意味もありませんでした。だから、あなたに最後のお願いをしようと思っています。あなたなら、きっと受け入れてくれると思うから。

本当にごめんなさい。

守は、新平の声の無い告白に震えた。家族に纏わる言い伝えのせいで、幼い命と幸せを望んだだけの若い夫婦が死を選ばなくてはいけなかったのか。人間の命とはどれほど儚く因果なものかと思った。玲子が神社を探していたのは、この呪いの事を知っていての事だったのか。自分たちの運命を変えたくて、藁にも縋る思いで自分に聞いてきたのだ。長くボランティアをやってきたが、結局自分は大森夫妻を救うことが出来なかった。そう思うと守は自分の無力さを感じた。

スポンサーリンク

鏡に映ったのは

それと共に守には気になった事があった。新平が自分に助けを求めてきたのは、殺めてしまった家族の亡霊から逃れるためだったという事だ。悔恨や償いという感情と変わっていく現実のギャップに悩んでいたのではなく、恐怖から逃れるために自分に助けを求めてきたのだ。という事は、家族の亡霊は新平を恨んでいたという事なのか。ホームで玲子の姿を見かけ新平を突き飛ばしたとき、スローモーションで落ちていく新平は疲れた顔をしていた。あれは心労から来るものだと思っていたが、どうやら『疲れていた』のではなく、『憑かれていた』らしい。

何度か玲子を見かけた時に口にしていた『一緒に見つけて欲しいんです・・・きっとどこかにいるはずだから・・・』というのは、殺されてしまった自分を探してほしいという事だったのか。それとも、単なる事故ではなく、奪われてしまった娘の魂を見つけてほしいという事だったのか。考えれば考えるほど謎は深まっていくが、幸せの絶頂に見えた家族が、呪いや怨念という非現実的なモノに包まれてしまったことに、守は身震いがした。

ふと、守は押し入れの中にあった手帳が気になって腰を上げた。あんな手紙を読んでからは気が進まなかったが、とりあえず広げて読んでみた。そこには次のようなことが書かれていた。

  • 【解怨の祷】は呪いや呪縛から解放するための儀式である
  • 必要なのは、自分の顔が映る鏡、13本の蝋燭、水か酒、自分の手形を写した布か紙
  • 鏡を囲うように蝋燭を円にして、その両脇に水か酒を置く。手形は鏡の下か上に配置する
  • 呪いや呪縛から解かれたいと強く念じながら、火を灯した蝋燭を左手で覆い隠す
  • 覆い隠した手で蠟燭の火を一つづつ消していく
  • その間鏡から目を離してはいけない
  • 失敗するとその呪いや呪縛は儀式を行った場所に永久に留まり続ける
  • すべての蝋燭を消した後、鏡に怨霊が映ることがあるが、その場合は鏡を割る
  • 最後に、手形を写した布か紙を燃やしてその灰を川に流す

こんな方法で呪いや怨念が払われるものなのか、そもそも呪いや怨念というものが存在するのかさえ守には懐疑的だったが、効果の是非が分からない儀式に頼らざるを得ないほど、新平は追い込まれていたのかと思うと、守は何ともやるせない気持ちになった。ただ、もしこの手帳に書いてあることがすべて本当だとしたら、新平はこの儀式に『失敗した』と手紙に書いていた。失敗した場合は・・・。守は背筋がゾクッとした。それは『失敗するとその呪いや呪縛は儀式を行った場所に永久に留まり続ける』という文面が手帳にあったからだ。もしそれが本当だとしたら、自分の家に呪いと呪縛が囚われるという事になる・・・。

人助けの精神で関わった夫妻の顛末に苦々しい思いを抱きながら、押し入れに残された儀式の痕跡を片付けようと守が身を乗り出した。ふと、静まり返った自宅のどこかから、赤ん坊の泣き声が聞こえた気がして、押し入れの鏡に映った守の背中越しに、虚ろな目をした玲子とその腕の中で眠る恵美の姿が見えた気がした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました