玲子は引っ越しをするために、手頃な賃貸物件を探していたがなかなか見つからなかった。父が朝刊から取り出した物件一覧の広告を広げてみたが、どれも玲子の考えていた予算や間取りに合うものはなかったのだ。ある程度の年数なら、新しい物件じゃなくても良いと玲子は考えていたが、とにかく家賃を安くしたかった。理由は、大学で知り合った新平とこのまま結婚するだろうと思っていたので、結婚資金を貯めたかったというのが大きな理由だ。
大学3年生の玲子は就職活動も佳境に入り、地元の群馬県で事務社員として就職が内定していた。親元を離れる必要はなかったが、新平との同居も視野に入れて計画を立てていた。新平は同い年で、都内の会社に就職する予定だった為、通勤が可能な駅に近い物件を探していたが、当然駅が近いとなれば家賃は高く、なかなか見つけられなかったのはそれが理由だ。
新平の父親は埼玉県で小さな不動産会社を経営していた。玲子は最初お願いしようと思っていたが、よくよく聞いてみると、近隣の駐車場の管理や相続案件など、昔からの付き合いで利鞘を稼いでいるらしく、大手の不動産会社のように豊富な物件を持っている訳ではなかった。そのため、新平が父親に相談してくれた時も、いい物件がないということを聞いていたのだ。
掘り出し物件の理由
玲子は大学の講義を終えると、友達の香織と買い物をしていた。大学生なのでそれほど遊ぶ金があるわけではなく、ウィンドウショッピングをしながら、時間を潰していたというのが正しい。
喫茶店へ入ると、香織が玲子に尋ねた。
『最近どう?新平君とはうまくいってるの?』香織は仲のいい友達の一人だったので、当然玲子も新平とのことは話していた。『うん、もう3年も付き合ってるしお互いに親にも挨拶してるから、多分このまま結婚するかな。』ガヤガヤした喫茶店で、玲子は少し惚気て見せた。
『でも、いい物件が見つからないんだよね~。それだけが今の問題かな。物件さえ見つかれば、あとは仕事頑張って結婚資金を貯めて、結婚したタイミングで寿退社かな?』まさに理想の人生計画だ。まだ大学卒業もこれからという所で、玲子と香織は自分たちの理想の将来について話していた。いつもの事だった。突然、玲子の鞄からポケベルの音が鳴った。
『誰から?』香織が尋ねた。
『あ、新平みたい。”20時に電話する”だって。なんか話があるのかな。』そう言うと、玲子は腕時計を確認し、そろそろ帰ろうと香織に促した。
帰宅すると母が夕食の準備をしていた。今日はロールキャベツとハンバーグだそうだ。母が作るハンバーグは塩加減がちょうどよく、ソースがなくても食べられるので、最近健康を気にしている父が喜んで食べていた。玲子は居間でテレビを観ていた父と、台所で味噌汁を作り始めた母に対して、新平から電話が来る予定だということを告げた。
20時を回ると、ポケベルの連絡通り玲子の家の電話が鳴った。玲子は玄関にある電話まで行くと受話器を取った。
『もしもし、工藤です。』
受話器の向こうから新平の聞き馴れた声が聞こえた。新平は電話口の玲子に対してこんなことを話した。
『あ、玲子か?例の物件の事なんだけど、親父のところでよさそうな物件が見つかってさ。ちょっと古い物件なんだけど大家さんが隣に住んでるから何かあっても安心だし、駅から徒歩5分圏内の平屋で、3DKの間取りなんだ。家賃は毎月25,000円。どうだ?なかなかいいと思わないか?』
築年数は古いということなので、実際に物件を見てから決めればいいとのことだが、それ以外は玲子と新平が探していた条件に当てはまった。玲子はその週の土曜日に父親と一緒に見に行くことを新平に告げ受話器を置いた。
約束の土曜日、待ち合わせの14時よりも少し早く、玲子と父親は新平の父が経営する不動産事務所に車で到着した。町の交番くらいの大きさの建物で、『大森不動産取引』の看板がある以外は特に目立つような建物ではなく、近所の人以外はそれが不動産会社だとは思わないだろう。
少し雑草が生えた駐車場には黒と黄色のロープで仕切り線が敷かれており、駐車スペースは丁度4台分だった。今日は玲子達以外に来客は無さそうだ。
『ごめんください。』玲子が建物に入ると、新平の父親が奥で何やら作業をしていた。『ああ、玲子ちゃんか?あ、工藤さんお久しぶりです。』玲子の父に気づいた新平の父親は、椅子から立ち上がって頭を下げた。
事務所の奥の部屋で待機していた新平も顔を出して、さっそく例の物件を見に行くため、新平の父が運転するワンボックスカーを走らせた。土曜日という事もあり車通りは多かったが、秋口の午後の風は心地よく車の窓から滑り込んできた。
『ここです。』
住宅街にある一軒家の前で新平の父は車を停めた。そこは確かに新しい物件ではないが、古臭いという感じもしなかった。唯一玲子が気になった点と言えば、家の周りをブロック塀で囲ってあり、簡素な門が付いている事くらいだった。防犯上の観点では利点だと思ったが、ブロック塀が自分の背丈よりも高いことが気になったのだ。
『お隣が大家さんなんです。京都のご出身の方なんですが、身寄りはなくて、30年前にこちらに引っ越してきたそうです。その時に自分の家と離れを建てたんですが、もうほとんど使わないし、手入れが大変だからってことで借家に出されて。あ、富樫さん、こんにちわ。』
ブロック塀の外側から小柄な老婆が現れた。この富樫という老婆が大家のようだ。
富樫 恵理子(とがしえりこ)–京都の出身で結婚歴はあるが、現在は独り身。元々の家系が地主だったこともあり、以前も借家をいくつか持っていて生計を立てていた。詳細は分からないが、家族と仲違いしたらしく、手切れ金として受け取った金で引っ越した先のこの土地を購入。自宅と離れを建てたらしい。以前は自宅で煙草屋をやっていたが、歳も歳なので10年前に廃業し、改築して自宅にした。離れは元々自分の住居として使っていたが、現在はほぼ空き家状態なので6年前から賃貸に出していた。
『あー、大森さん、色々世話になっています。あら、そちらのお嬢さんが今日のお客さんかい?新ちゃんと同い年くらいだね。あ、恋仲ってことかしら?』年の功なのか、ただお節介なだけなのか、新平の事を知っているらしく、玲子と新平が恋人同士であることを見通していた。
『若い人にはちょっと好ましくない内装かもしれないけどね、水道代はうちと同じ配管だから払わないつもりで居てくれて構いませんよ。電気とガスもウチの契約とくっついて良ければ、他所のそれより安く上がると思うんだがね。』
玲子にとっては朗報だった。家賃も安い、光熱費は大家の家と同じ契約内で使えば安く済ませられるらしい。新平の父親も頷いているので、恐らく問題があるような事ではないのだろう。あとは、内見をしてみて、気に入るかどうかだけが判断基準のようだ。
『じゃあ、中で詳しいお話をしましょうか。富樫さん、またあとでお声掛けしますね。』そう言って新平の父親は門の錠を外して、玲子たちを中へ招き入れた。
雑草はかなり伸びていたが、入居が決まれば新平の父が手入れをしてくれることになっているらしい。玄関にポストがないので、それだけは自分で購入が必要のようだ。また、塀で囲まれた作りになっているため、車を停めるスペースがない。駅まで近いことを考えると車は必要がないだろう。将来的に必要になったら、その時は近くに駐車場を契約すればいいんじゃないかと、玲子は父と話していた。
一通り内見をしてみたが、意外にも水回りは非常に綺麗で、築年数の古い家にありがちな『嫌な感じ』がなかった。トイレと風呂場もリノベーションされており、外見からは想像できない新しいものだった。玲子は何も問題はないと思ったので、父に契約したい旨を相談した。
ガランとした和室に腰を下ろした新平の父は、間取り図や注意事項説明書などを鞄から取り出した。そして、興味津々で辺りを見回す玲子と玲子の父親を呼び止めて、声を少し落としてこう話し出した。
『実はね、この物件が安い理由がありまして。見てもらった通り、築年数は古いんですが、富樫さんが結構お金持ちなので手入れはしっかりやってくれてたらしいんですよ。だから、物件としての問題点っていうのは玲子ちゃんが言ってた塀が高かったり、ポストが無いくらいの話なんです。』
『というと、ほかにどんな理由が?』玲子の父が天井を見上げながら質問した。すると、新平の父はその理由を話し始めたが、それを聞いて玲子は取り扱い物件が少ない理由が何となく分かった気がした。話が長くて脱線が多いのだ。まとめるとこんな感じだった。
- 大家は普段は温厚だが、自分の家族の話になると癇癪を起すので、絶対に触れてはいけない。
- そのため、不動産管理契約に必要な書類で揃わないものがあり、ほかの管理会社がお手上げとなり新平の父が請け負っている。
- 京都から出てきた理由は親戚との揉め事と言われているが、実はよくない噂が立っている。
- 大家はいつも足袋を履いているが、素足になるのが嫌だという理由でどこでも土足で上がってくる。
- 長く放っておいたせいか、近所では心霊現象が起きるのではないかという噂がある。
- 夜中になると、どこからともなく高いうなり声が聞こえることがある。
- 一つ前の住民は夜中の声が耐えられずに出ていった。
『所謂、なんちゃって瑕疵物件ってことですね。』玲子の父はそうまとめた。
『ええ、ただ、私と新平で1か月くらい住んでみたことがあったんですが、確かに夜に何となく動物のような高い声が聞こえることはあったんですが、犬や猫を飼っている家庭なんてそこら中にありますからね。噂されているような心霊現象ってのも一切確認できなかったし、ちょっと変わった大家さんだからか、尾鰭の付いた話が膨らんでしまったのではないかなと思うんです。』
玲子は少し曇った表情でその話を聞いていたが、新平が事前に確認をしているのなら大丈夫ではないかと安心した。住んでみてどうしてもというのであればその時は何とかすると新平の父が言ってくれたことと、とりあえず様子を見てダメなら実家に戻ればいいという父の助言もあり、玲子は契約をすることにした。
テレビが二つある理由
引っ越しをしてからというもの、心配されたような心霊現象や奇怪な出来事は何も起こらず、壁紙や襖など、好きにいじっていいと大家から言われていたので、玲子は自分の好みに内装を変えることが出来て満足していた。
越してきてから2か月が経とうとした頃、大家から声を掛けられた。
『どうですか、少しは慣れてきましたか?』
玲子は大きく頷き、問題がない旨、貸してもらって助かっているという旨を大家に話した。
『それは良かった。ところで工藤さん、お仕事はされているの?もし時間があるんだったら、私のボケ防止にお話の相手をしてくれないかしら。』唐突な依頼だったが、バイトをしていない玲子は、就職するまでの期間なら可能であるという事を大家に話した。嬉しそうに笑った大家は、水曜と木曜の午後に自分の家に来てくれという事を玲子に話した。特にやることもない生活で独り身のため、話し相手が欲しいというのだ。それが、借家の住民であればお互いに安心できるというのが理由だった。
大家の家は、玲子の家と同じくらいの年代物で、リノベーションをした部分は新しくなっていたが、外観はとても古臭い感じがした。居間に通されてお茶を出されると、玲子は何から話していいのか頭の中で考えた。本来なら身の上話を深堀して共通点を探りたいところだが、新平の父から聞いていたので、大家自身についての話をするわけにはいかなかった。
ずっと黙り込んでいる玲子に大家は意外な事を話し出した。
『あー、私の出自については触れるなって誰かから言われたのかい?』まさか自分から切り出してくるとは思わなかった。続けて大家はこう話した。
『こっちに越してきたころは色々言われたから、事実じゃない事は言い返してたけど、私も若かったからね。ついついカッとなった事は確かにあった。でも、聞いてくれるなということではないんですよ。』
『私はね、京都の生まれで家が代々地主をしていたから、それなりに裕福な家系に育ったんですよ。戦争の時も恩赦を受けて父は戦地にはい行かずに済んで、その後は何不自由なく暮らしていましたよ。』
聞いていた話とはずいぶんと違う、優しく柔らかい口調で大家は話を続けた。
『私がこっちへ出てきた理由はね、うちの家系に纏わる伝承が嫌になったからなんですよ。うちの家系は地主をしてたでしょ。昔々のご先祖様が、山や野原を切り開いてそれを貸し出したところから始まったらしいのよ。でも、山を切り開くと動物が住めなくなるでしょ?特に、オオカミが多い山だったから、それはそれは、たくさんの動物を殺したらしいのよ。』
『それで、父の祖父のそのまた父親・・・いつだったか分からないけど、オオカミの呪いが降りかかるって言われていてね。』
『オオカミの呪い?』玲子はお茶をテーブルにおいて、マジマジと大家の顔を見つめながら言った。
『ええ。なんでもね、殺された動物たちの恨みが呪いに変わって、災いをもたらすって。その災いってのが、父親が自分の息子を殺してしまうって言うんですよ。そうすることで、うちの家系には女しか残らないようになるでしょ?オオカミは男が居なくなって、弱体化したうちの家系を仇討ちしようとしているんだって。』
ここまで話すと大家は不意に遠い目をしてお茶を啜った。
『でね、そんな話が代々受け継がれてきたから、私も結婚をしてはいけないって言われてきたの。結婚をすれば、夫が自分の子供を殺してしまうからって。私はそんな災いなんて信じなかったんだけど、私の父が兄を殺してね。』
『え・・・本当ですか?』
玲子は信じられない様子で大家の話に聞き入っていた。
『そうなのよ。だから私も怖くなってね。でもね、伝承とか言い伝えっていうのはその土地に基づく事が多いから、とりあえず京都を離れようと思ったの。そしたら兄が居なくなったから、後継ぎはどうするって話になって引き留められてね。私は断固として説得には応じなかったんだけど、だったら結婚はするなっていうことを条件に京都を離れることが出来たわけ。』
玲子は驚いたが、半信半疑で年寄りの昔話だと思って聞いていた。
『ただ・・・私結婚しちゃったのよ。』
大家は低い声でそう言った。
『やっぱり年頃になるとどうしてもねぇ。それから子供が出来て。息子でした。出産してまもなく、旦那の様子がおかしくなってね。満月になると目をギラギラさせて家の中を歩き回ったり、山に向かて叫んだり。もう私、怖くてね。自分が約束を破ったばかりに、旦那がおかしくなってしまったんじゃないかって。そうなれば、息子が危ない。だから、まだ1歳にもならなかった息子を孤児院に預けたの。私の身分は明かさないで欲しいって頼み込んで。さすがに辛かったわよね。』
玲子はここまで聞いて、近所の噂が何となく分かった気がした。幼子を孤児院に預けた大家を、周りの連中は好奇の目で見ていたのだろう。京都でも地主だったことから、手切れ金もそれなりの額を貰っているはず。そうなれば、本当のことを知らない人間が、根も葉もない噂をするのは簡単な話だ。玲子は大家の話を聞いて少し不憫に思えた気がした。
『息子さんとは・・・その後どうしたんですか?あと、旦那さんは・・・』
恐る恐る玲子が尋ねると、『息子とはそれっきり。旦那はおかしくなって蒸発しちゃったわ。それから私は天涯孤独ってわけね。』京都には親戚が居るはずだが、『天涯孤独』という表現をするところを見ると、もう親戚を頼るつもりはないという意志が見て取れた。
『そうだったんですね。色々大変でしたね。』玲子が相槌を打つと、大家はニコッと笑った。もう少し話していけと言われたので了承すると、急須にお茶を入れるため大家は立ち上がった。
次の瞬間、玲子はあるものが視界に入った。
大家がお茶を入れている台所に古いブラウン管テレビがあるのだ。かなりの年代物で、ダイアル式のチャンネルレバーが画面の横についていた。ただ、居間にもテレビがあり、台所と言っても冷蔵庫と流し台があるくらいで、そこでテレビを観る必要があるとは思えなかった。
台所から戻った大家に、玲子はあの古いテレビについて尋ねてみた。すると大家は次のように答えた。
『あぁ・・・あれは息子を孤児院に出してしばらくしたころに京都の実家から送られてきたものでね。電源は入るけど、もうテレビとして使うことは出来ないものなんですよ。でも、あれには仕掛けがあるみたいでね。』そう言うと大家はゆっくりと腰を持ち上げて、たんすの引き出しから一枚の紙切れを取り出してテーブルに広げた。
『これがね、その仕掛けなんだって。私にはなんだかよく分からなくて仕舞っているんだけど。私が死ぬまでに解けなければ処分してもらうように遺言書には書いているのよ。』
大家が広げた紙切れには次のように書いてあった。
- 東に目を向ける
- 西に両腕を向ける
- さらに西に足の指を向ける
- 東に一回転して右目を西へ
『なんだかよく分からないでしょ。』大家はため息交じりにそう呟くと、紙切れを脇に寄せた。玲子にも何のことなのかよく分からなかったので、咄嗟に思いついた母のハンバーグの話にすり替えた。大家は頷いて聞いていたが、少し眠そうな顔をしたので、玲子は気を遣ってそろそろ帰ると告げて大家の家を後にした。
気づいてしまった大家
それからというもの、玲子は毎週水曜と木曜に大家の家に出向き、他愛もない世間話をするようになった。当然用事がある時は、事前に告げればトヤカク言われることはなかったが、新平の父から聞いていたような、扱いにくい人間性は感じなかったため、大学以外ではそれほど友達の多くない玲子にとっても暇つぶしになるので好都合だった。
週末はだいたい新平と会っていた。ある日新平が玲子の家に来ると、玲子は大家から聞いた例のテレビについてふと思い出し話して聞かせた。
『すごく古いテレビでね。今じゃ見かけないようなダイアル式のチャンネルが付いてるの。それと、変な紙切れが一緒に送らられてきたみたいなんだけど、結局大家さんもその意味が分からなくて放置してるんだって。お子さんを孤児院に預けた後に送られてきたみたいだから、何か関係があるのかもしれないけど、自分が生きてる間に解けなければ処分するんだって言ってたのよ。』
玲子がそう話をすると、新平は閃いたかのような顔で玲子にこう尋ねた。
『それって、単純にテレビのダイアルが暗号になっているんじゃないかな。』
新平は大の相撲好きでその知識を生かして次のように推理した。
- 東と西というのはダイアルを回す方向を示している。相撲の世界や神事に関わる場合に東は右を、西は左を表すので、恐らくダイアルをその方向に回すということ。
- 目、両腕、足の指、右目というのはダイアルを回す数を表している。要するに『2、2、10、一回転、1』
- これを総合すると、右に2、左に2、さらに左に10、そこから右へ一回転、そして最後に左へ1ということだ。
そうとなれば話は早い。二人は大家の家に向かった。しかし、大家は留守だったらしく、何度か呼び鈴を鳴らしても出てこなかった。玲子が後で大家に伝えるという事にして、新平は自分の家に帰っていった。
新平が帰った後、玲子は図書館へ向かっていた。仮に新平が言う通りブラウン管テレビの謎が解けたとして、その先に何が隠されているのか。ひとつ理解出来ないのは、大家が話した家系の呪いや災いについてだ。玲子は悪いと思いながらも、大家の先祖である富樫家や、京都に伝わる伝承について調べることにした。
土曜日の図書館はいつもより人で溢れていた。
受付で郷土資料の本の場所を聞いた玲子は、図書館の2階の『地方資料・郷土研究』という分類の棚へと急いだ。そこには地方の伝承や歴史について書かれた本がたくさんあったが、京都は比較的大きな都市であるためそれなりに種類が多く、本の選別に苦労をした。
玲子は、京都の財閥の家系図や歴史が載っている本と、郷土文化や伝承についての本を手に取った。財閥の一覧に『富樫』という名前は見当たらず、どうやら家系図を追っていく事は出来ないという事が分かった。一方、伝承についての本には、確かに土地の動物に関わる災いや習わしなどが書かれた項目があった。
古来より、動物の霊や災いが人々の生活に害を与えるということは珍しくありません。そのため、供物を納めたり祀り碑(まつりひ)を作ることで、人々はその災いを避けようとしてきました。
特に話として多いのは蛇やキツネですが、京都の伝承で多く伝えられているのはオオカミについての伝承です。
山に隣接する京都では、人間が暮らし始める遥か以前より、オオカミをはじめとする獣が多く存在し、その土地で生きてきました。しかし、文明の発達と共に住む場所を追われた動物たちは次第に人間を襲うようになってきました。
オオカミに纏わる伝承としては、子供が生まれた際に、生贄として一番最初の子供を祀り碑に捧げたり、豚やウサギなどの動物を生贄として捧げるという習わしが長く伝えられていますが、特異な例として、人間を嫌ったオオカミの恨みにより、生まれた子供を自ら親が殺してしまうという事があったり、オオカミに襲われた女性がオオカミとの間に子を宿して、奇形の子供が生まれてしまうという説もあります。
調べてみると、確かに京都に伝わる伝承としては、大家の話に通じるような事がいくつか書かれていた。しかし、多くの伝承や習わしというのは、あくまでも信教と同じようなものであり、子供に対して教育をする為に『悪いことをしているとお化けが出る』というような、ある意味、一定の行動や考え方を禁ずるための作り話によるところが少なくない。
玲子はあまり参考にならなかったと思いながらも、大家の話が全て嘘ではないと感じた。そうだとすると、代々伝わるオオカミの災いが元で、乳飲み子を孤児院に預けることとなった当時の大家の心境は計り知れないものがあっただろうと同情した。
次の日の日曜日、玲子は大家宅を再度訪れた。玄関まで出迎えてくれた大家に、新平と話したテレビの暗号について話をすると、あまり気が進まない様子の大家だったが、せっかく来てくれたからと茶菓子を振舞った。
『それで、あのテレビちょっとお借りしてみてもいいですか?私も話を聞いてしまった以上、気になってしまうというのも本音なので。』玲子はいつも以上に丁寧に大家に話すと、台所にある古いブラウン管テレビに歩み寄った。正直、もしこれで謎が解けたとして、その先に何が待っているのか考えると、玲子は少し怖いという気もした。ただ、今は怖い気持ちよりも好奇心が大きく、玲子の心を埋め尽くしていたので、玲子はそのテレビの前に胡坐をかいた。
『若いのに相撲が好きだなんて、古風な男を捕まえたね。』
大家は新平の書いたメモを真剣な眼差しで見る玲子を茶化した。
テレビの電源を入れて、所謂砂嵐のザーッという音が大家の家の居間に響いた。玲子はダイヤルの矢印を天辺に合わせて一呼吸置いた。ふと大家を見ると、興味はないような事を言っていた割には、じっと玲子の手元を見つめている。
右に2、左に2、さらに左に10、そこから右へ一回転、そして最後に左へ1。
メモリを一つ動かすたびに『ガチャガチャッ』という音がして、玲子は初めてのダイアル式チャンネルに少し戸惑ったが、新平に教えてもらった通りの順番でダイアルを動かした。
しかし、テレビには何の変化も見られなかった。大家が、玲子から新平の書いたメモを受け取って文字を目でなぞっていると、ふとある一文で目を見開いた気がした。
『どうしました?』
玲子が尋ねてみたが、何でもないと大家はメモを玲子に返してしまった。
『やっぱりね、彼の推理は失敗だったのかしら。』大家はそう言うと、居間のテーブルの方に行ってしまった。玲子はその後何度か試してみたが、何度やってもテレビは砂嵐を写すだけで全く何も起こらなかった。それまでの好奇心が嘘のように、玲子は意気消沈してしまった。
大家の家から帰った玲子は、すぐに新平に事の次第を電話で話した。『まぁ、何となくの思い付きだからね。』と新平は言ったが、玲子には何かが引っかかった。考え方は合っているのではないか、あの大家が何か気づいたような間は、何が違うのか分かっているからだったのでないか。でも、本当の手順が私に知られたら、テレビに隠された秘密についても私に知られることになるのが都合が悪いのではないか。
玲子は疑心暗鬼になりながら、その日の夜はしばらく寝付けずにいた。
次の日、月曜日は午後から大学の授業があるので、午前中には身支度を済ませた。適当にテレビをつけて寛いでいると、玄関のチャイムが鳴った。急いで玄関まで行ってみると、そこに立っていたのは新平の父だった。ひどく動揺した様子を察した玲子は『月曜からどうされたんですか?』と聞いてみた。新平の父から発せられた言葉は、玲子も大きな動揺と疑問を感じた。
『お、大家さんが、富樫さんが亡くなりました。』
コメント